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社会の窓は「いざ」ってときしか開けちゃいけない(下)

  • 執筆者の写真: bunkeiedison
    bunkeiedison
  • 2023年5月5日
  • 読了時間: 10分

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前回のあらすじ】

 自己分析に関する「ジョハリの窓」という概念は、ある個人の持っているパーソナリティーを「自認している/していない」「他者に知られている/知られていない」の2×2=4枠で振り分けており、その区分を窓の格子枠になぞらえることで名付けられた。

 この表現を知ったおれは、せっかく「窓」という呼び方を使う以上、単なる格子枠ごときに留まらない窓のいろんな特徴をふんだんに取り入れた概念こそ「○○の窓」と呼ぶにふさわしいから、ジョハリに代わる新たな別の定義を作ってみようと考えた。

 それが下図に表された、自分の視点から見える有形無形の情報に対して、自己がどのように取捨選択してどのようにリアクションするかの図解、「(下ネタじゃないほうの)社会の窓」である。

 具体例を用いながらこの図の使い方を示した前回から踏み込んで、今回は現代の情報社会においてだらしなく開けっぱなしにしがちな「社会の窓」のあるべき扱い方を考える。


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 自分から求めなくても容易に情報が眼に飛び込んでくる時代では、「社会の窓」の図における壁に対する窓の占有面積が、デフォルトで昔より広くなったんやと思う。駅や電車の広告の多さは物理的に歩行者の目を引くし、スマホの画面に並ぶ広告は気づかんうちに自分好みの内容ばかりで、物欲的に閲覧者の袖を引っぱってくるもんね。

 そんな時代になるにつれ、広く大きくなった窓を開けるのに要る力も比例して増えたのかと言えば、自分の意見を主張できる手段がさまざまな媒体で豊富に提供されていることを踏まえると、逆に窓の操作はよりお手軽にできるようになった気がするんよな。雑踏の中に飛び込んでプラカードと拡声器で大騒ぎするだけがアジの選択肢では無くなったように。かつては人力でエイヤァと開放・閉鎖していた窓が、今ではボタン一つで、軽い力で気楽に開閉できるようになった、そんな感じ。


 窓が広くなった、窓の開け閉めが気軽になったということはつまり、家にいながらにして見える外の景色が幅広くなったということでもあり、家にいながらにして外界との窓口に容易にアクセスできるようになったということでもある。そのおかげで自分と社会との風通しも良くなり、プライベートと公共の場の境界を隔てたままのコミュニケーションはだいぶ簡単なものになったのかもしれない。自分は窓の向こうの相手の姿を認識しつつ、相手からは屋内にいる自分の素性が分からない状態でやり取りするのは気が楽なんやろうな。自分の情報は何も付加してない捨てアカウントで芸能人のTwitterを一方的に閲覧したり、卑猥なリプライしたり。

 便利になった反面でこうした風潮が、自分にとっての「社会の窓」があくまで「社会の窓」だと自覚する機会を、めっきり希薄にしているとも言えるんじゃないか。それは、必ずしも喜ばしいことではない。窓が開けっぱなしなことをついつい忘れて、プライベートが確保された家の中でくつろいどる気分のまま、配慮の無い話を大声でしちゃうようなケース、SNSで良う見聞きするようになったもん。仲間うちの悪ノリが拡散されて大変な騒ぎになるとかさ。ああいう悪ノリ自体は、この風潮に目くじら立てとるオッサン世代の青春時代にも存在してたとは思うんやけどね。当時はそれが仲間うちの空間から外に出る術が無かっただけで。

 言ってみれば、もし今話してるこの「社会の窓」がさ、下ネタのほうの社会の窓やったらエラいことよ。「現代人は自分のズボンのチャックに対する警戒心が軽率になって最近ではしばしば無意識にチンチンを公衆の面前で覗かせるようになった」って書いとるようなもんよ。そんなことして公然わいせつで捕まったとして、その言い訳に「いや〜、最近のズボンはファスナーの性能が良くってね、ちょっとチンチン掻こうと手を伸ばしたらその弾みで勝手にチャックが下りちゃうんですよ、ぐへへへ」なんて説明しても、無罪にはならんやろ。

 …お得意の論理の飛躍による詭弁はこの辺でやめとくにしても、それと似たような危機感は、下ネタじゃないほうの「社会の窓」についても持っておいて良いと思うんよな。


 自分の気に入らん意見に対していちいち反駁したくなる気持ちや、反対に自分が崇拝してるような対象を執拗に称賛したくなる気持ちが抑えきれないような人を、特にSNSやネットニュースのコメント欄ではよく見かける。

 そういうの、単にその人のご機嫌や性格に由来する衝動のせいとは限らなくって、今書いたような現代の「社会の窓」の開けやすい構造とか建付けにも起因するんちゃうか、ってたまに思うことがある。軽率でお粗末なアホどもの主張の中身自体を擁護するつもりはないけど、馬鹿が馬鹿であることを馬鹿みたいに簡単に公表できてしまう環境があるっていう現状まで、そいつらの馬鹿さ加減だけのせいにしちゃうのは、なんだか救いようが無いじゃないか。隣家がゴミ屋敷なせいでうちにまでゴキブリが大量侵入してきたとき、そのゴキブリたちを責めるのはちょっと違うやろ。

 そう、前向きな形に言い換えるなら、「社会の窓」の取扱いさえ気を引き締め直せば、誰にだって(どんな馬鹿にだって)、些末な情報なんぞにピリピリ目くじら立てずに暮らせるスキルを取り戻すチャンスはあるかもしれないよ、ってことなんよ。

 もっと端的に言っちゃうと、社会の窓は「いざ」ってときしか開けちゃいけない、そんな当たり前のことを守ろうじゃないか、ってこと。なんか露出狂に説教してるみたいな響きやね。


 ということでまずは、人が「社会の窓」を開けるべき「いざ」ってときとはいつのことなのか、を考えてみる。


 ズボンのチャックで言えば、「いざ」ってときなんて限られとるもんな。

 おしっこしたくなったときとか。排尿時にズボンのチャックを下ろさなければ、くっさいくっさいおしっこが自分の服の中に溢れかえる。

 チャックじゃない「社会の窓」でも実は似たような話でさ、自分の内面に溜まった鬱屈とした感情なり不要になった知識や記憶なりは、いざとなったら自意識の外に吐き出してしまったほうが断然良いのだ。溜め込んで消化しきれなくなって、自分が腐っていくくらいなら。けど絶対に守るべきなのは、そんな汚いものを外に放出する前に必ず、その先に誰もいないことを確認するってことやね。おしっこをするときは周りの人にぶっかけてはいけないんだよ。

 そもそも、今にも吐き出したくなったおしっこ的な感情が衝動的に芽生えたら、お手軽な社会の窓のハンドルレバーに手を伸ばさないで、自分の家の中でそいつの廃棄や消化や昇華を完結できたらいちばんええんやけどね。王様のロバ耳を見てしまった床屋のように適当な穴を裏庭に掘って、そこにそのままやりきれん感情を流し込んだり。あるいは、ヨガでも登山でも良いから、負の感情をきれいに洗い流せる小便器的なルーティーンを自分の中に見つけたり。賢い人はそういう行いをアンガーマネジメントと気取って呼ぶけど、それは要するに単なる「トイレのしつけ」なのだ。


 あとそういえば、おしっこの他にズボンのチャックを開けるときと言えば、それはもう最高にエッチな方向の場面があるやんけ。この場合こそ、「いざ」の中の「いざ」やんね。

 それに、ションベンと違って相手がいる。向き合った相手に対して自分のいきり立ったチンチンをひけらかすなんて!それは何と建設的なチャックの開けどきなんだろう。

 けど、こういうロマンチックな社会の窓の開けどきにおいても、それがロマンチックであるゆえに、守るべきマナーがいろいろあるよね。合意も形成される前にいきなりチンチンを見せてはいけないし、自分勝手なペースでチンチンを使ってはいけないし、相手の「社会の窓」も丁寧にしかるべきタイミングで開けなければならない。最終的にチンチンから出る「何か」を相手にぶっかけるなら、尚更のこと相互の信頼関係が要る。…えっ、何の話しとるんや?

 要するに、こういう「いざ」の場合はさ、相当の愛や思いやりや覚悟が無いと、カッコよくキマらないんじゃなかろうか。これは下ネタじゃない「社会の窓」でも非常に大事なことで、何かを自分から社会へ主張するときには、愛や思いやりや覚悟、それらをそれなりに持ってない限り、安易に社会に向かって窓を開け放ってはいけないと思うんよ。めちゃくちゃつまんなく言うなら、「発言には責任を持て」みたいな言葉がそのニュアンスに近い。


 ちょっと下ネタ寄りに傾いたなあ。こっからは「社会の窓」を下ネタじゃないほうの定義に限定したうえで、この話を締めくくろうか。


 いちばん言いたかったのはさ、「社会の窓」を開けるべきタイミングは上述した通りやけど、そもそもの窓の「建付け」というか、その窓の位置や大きさ自体についても考え直してみてはいかがですか?ってことなんよ。

 世間では「しばらくSNS断ちします」って宣言する人や、「電話もネットもない脱デジタル体験」ができる宿のことが取り上げられたりする。それはさ、今回の「社会の窓」概念で言うところの窓の面積を、「一時的に」狭めるような試みやと思うねん。さながら、風が強くなってきたからガラス窓をいっとき不透明で強固な雨戸で塞ぐがごとく。

 社会の窓をいっそピシャリと閉めてみようとあえて試みるだけでも、衝動的なSNS投稿で炎上する輩が少なくない昨今においては見上げた根性やと思うけどさ、それはやっぱりあくまで、一時的な処置なんや。嵐が過ぎ去ったと思って再び雨戸を開けたとたん、外界の景色の情報量の多さや眩しさの極端な差に目がくらんでしまうかもしれないよ。

 そういうことを危惧すると、やっぱりガラス窓本体の建付けを恒常的にアレンジし直すほうが、持続可能な開発目標を達成できると思います。

 けど、一度自宅に据え付けた窓枠の位置や大きさを、そう簡単に変えたりできるんやろうか?

…うーん、まあまあ、あくまで窓は例え話やもんな。おれの空想の中では、窓枠の形なんぞどうだってできるのだ。身勝手な思考は暇つぶし哲学の専売特許やね。


 空想ついでにより突飛なことを思いついたけど、自宅の状況や自分の家での過ごし方に応じて自由自在に変動させれたら、最高の対処法になるかもしれんなぁ。録画しとった金ローの「となりのトトロ」観てて、不意に浮かんだ。


 「トトロ」にさ、猫バスって出てくるでしょう。子どものころ初めてあのキャラクターを見たときに印象に残ったことなんやけど、あのバスって、人が乗り降りできる大きさのドアが常にあるわけじゃないのよな。サツキちゃんやトトロが乗り降りするときだけ、普通の大きさの窓が「みょ〜〜ん」って、ドアみたいな大きさまで縦に広がんのよ。

 これよ。おれが今言いたいイメージは、まんまと猫バスのドアのそれなんよ。「社会の窓」を自分の気持ち次第で任意に広げたり狭めたりできれば、おれらの家はもっと過ごしやすくなるんじゃないのか。

 例えば、ガラス窓に対して壁の面積を広く取ったり、自分に興味がある分野の窓だけ大きくしたりできれば、自分の視野は己の関心事にバチっと照準が定まる。これをみょ〜〜んとこなせる人は、きっと自分が好きなことひとつだけにめっぽう熱中できると思う。

 片や、いろんなことを広く広く見たい知りたいと思う人は、自分ちの壁面を全面ガラス張りみたいにしてみればいい。そんで、景色酔いしてしんどくなったらまた、みょ〜〜んて狭くしたらええんや。

 「デキる人は視野が広い」とか、「一点集中で打ち込んできた人は強い」とか、そういう断定的な話は、本当はどうでもいい気がするよ。いつだって、意のままに「社会の窓」をみょ〜〜んってできる人が、結局のところいちばんスゴいのだ。



…なんか面白がってあれこれ考えちゃって、しかも上下に分けたこともあって、お話の論旨がやや散らばっちゃったなぁ。オムニバスみたいね。猫バスだけに。


 結局は、「ジョハリの窓」よりおれの考えた「(下ネタじゃないほうの)社会の窓」のほうがよっぽど窓らしくって、しかもこんなにもあれこれ考えるタネになるじゃんか、ってことをひけらかしただけのことだった。



 こういうさ、他人に伝わるかどうかも危うい変テコなしょーもない物思いをすることも、おれにとっては日々を暮らすうえでの「トイレのしつけ」の一環なんだよ、きっと。






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