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社会の窓は「いざ」ってときしか開けちゃいけない(上)

  • 執筆者の写真: bunkeiedison
    bunkeiedison
  • 2023年3月19日
  • 読了時間: 10分

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何かがなかったという報告は、いつ聞いても面白い。知ってのとおり、知られていると知られていること、つまり知っていると知っていることがあるからだ。知られていないと知られていることがあることも我々は知っている。言ってみれば、我々は知らない何かがあるということを知っている。しかし、知られていないと知られていないこと、つまり、我々が知らないと知らないこともある。

Reports that say something hasn't happened are always interesting to me, because as we know, there are known knowns; there are things we know we know. We also know there are known unknowns; that is to say we know there are some things we do not know. But there are also unknown unknowns – the ones we don't know we don't know.

───ドナルド・ラムズフェルド(2002

 シンプルに○か×か、アリかナシかの2択で判別できる物事があるとして、それにもう1問、別ジャンルのアリナシ基準をかけ合わせたら、用意される枠は2かける2で、合計4つになる。

 例えば、おれの股にぶら下がってる金玉とあなたの両耳にぶら下がってるAirPodsは、単に「ニコイチで使うもの」って基準だけなら同じ1つの枠内におさまるけど、そこに別軸として「ナマモノか機械か」とかいった基準を付け足して区分を4つにしたら、金玉とAirPodsは、隣り合ってはいても別々の箱にしまわないといけない。

 今から20年以上前、アメリカの国務長官が記者会見で生んだ冒頭の発言も、だいたいはそういうことなんだよ、金玉が出てこないだけで。「知る/知らない」の二元論に、それが「意識的か/無意識的か」の軸を足して区別してんのね。抽象的な言い回しなので、軽くパッと読んだり聞いたりしただけじゃ分かりにくいけどね。ナンセンスをバックボーンに生きてるおれはこういう思考法がいたって好きで、素直に名文やと思うよ。

 名文なだけにこの発言にはWikipediaの記事まであって、その文中にはこのラムズフェルドの論法に類する概念図として「ジョハリの窓」なるものも紹介されとる。それは絵に描いたらこんな感じのもの。

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 ジョハリの窓とはもともと「自分をどのように公開ないし隠蔽するかという、コミュニケーションにおける自己の公開とコミュニケーションの円滑な進め方を考えるために提案された考え方」らしくって、ある人の性格やプロフィールの開示状態を「自分で知っている/知ってない」「他人に知られてる/知られてない」の4つの窓によって区分する図なんやってさ。

 例えばおれが、自分のことを人付き合いの良い性格やと思ってたとして、周りの友達もおれを指して奴は付き合いの良い男やと言ってくれたなら、おれの人付き合いスキルは自分にも他人にも知られた公開済みの開放の窓にあるってこと。対して、自覚は無かったけど周りの友達がおれの性格を評すときに「お前ってほんまプライド高いよな」って指摘したとしたら、そんなおれの高めの自尊心は、自分では知らなかったが他人には知られてた、つまりは図で言うところの盲点の窓に属する。

 こういうの、就活サイトとか転職サイトが好きそうなフォーマットやなぁと思って調べてみれば案の定、既にそういう界隈では自己分析の深掘りにこの窓がよく利用されとる様子。

 ジョハリの窓のWikipediaには英語版の記事もあって、そちらにはこの概念を「4つの部屋があるジョハリの家」と呼ぶ人もいた、というようなことが書いてあった。おれはこの表現を興味深いと思った。

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 ある1軒の家に私と友人がやってきたとして、その家には自分も友人も過ごせるリビングのような部屋もあれば、友人には教えてないけど自分は入れるプライベートな部屋、逆に自分は知らないけど友人はくつろげる部屋、そんでそれらに加えて実は自分も友人もその場所すら知らない部屋がある、っていう例え方やね。

 窓だろうと家だろうと同じ関係図に名前を付けたことに変わりはないけど、個人的な感覚で言えば、格子で4つに区分けされた四角形という単純な見た目だけでそれを「窓」と名付けるよりも、1つの家を分け隔てる「部屋」の間取り図として捉えて、立ち入るとか立ち入らないとか、プライベートなスペースとか陣地とかいったイメージしやすい表現との親和性を持たせるほうが、この概念をうまく説明しとると思う。

 せっかく正式名称として「窓」を採用してるからにはさ、何かこう、田んぼの田みたいな見た目からだけじゃなくて、もっと窓らしい役割というか特性というか、外見以外の意味合いにも言及した表現じゃないとウマくないよな〜、て感じちゃうんよ。そういうのが見出せないならやっぱり、いっそジョハリの「家」のほうがよっぽどわかり易くないか、ってこと。

 そしたら、「窓」というモチーフはどういう概念ならウマく活用できるんかな?

 最近のおれは、ジョハリの窓よりももっと「窓」らしさにマッチしたような命題を、ジョハリとは趣向を変えたテーマでちょっくら一発、代替案として提示できんもんやろか、とボーっと考えとった。

 今回のエッセイはその成果発表なのです。


 さてそもそも、ジョハリの窓っていう言葉において活かされてない窓の特徴って、何があるやろうか?

  • 開け閉めが出来る

  • 屋内と屋外を隔てている

  • 透明なので閉めたままでも外(内)の様子を観察できる

  • 周囲には不透明な壁がある

  • 壁と窓との位置関係(窓を壁に対してどのくらいの大きさで、壁のどの辺に付けるか)は任意に決めれる

ざっと挙げてここらへんかな。

 それに対してジョハリの窓って表現に見られる窓らしさっていうのはさ、繰り返しになっちゃうけども、

  • 格子と窓枠によって(4つに)区分けされている

せいぜいこの、ビジュアルに関わる特徴だけなんよな。これじゃさすがにもったいないよ。

 四角形をあくまで平面的に領域分けしただけで、そのさまを窓となぞらえるのは、何と言うか浅いし、手ぬるい。

 もっと3次元的に広域的にさ、窓の手前と奥の位置関係、あるいは窓そのものと周囲の壁との位置関係まで活用した「○○の窓」を考えてみたい。

 そうしておれはある日、こんな図を頭に描いたのだった。

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 さっそく上図の意味するところを説明していこう。


 第一に、この図の視点はもちろん自分の主観的な眼であって、その目の前には自分を取り囲む外界のあらゆる対象、事象が視覚情報として見えるわけです。

 そんで、窓うんぬんを持ち出す前に、まずは自分と外界の間にドンと壁を立てることを意識すんねん。壁より手前が自分にとっての屋内で、壁の向こうが屋外になる。自分という人間は社会という野原に裸一貫で放り出されとるとは言え、認識的には自分にとってのパーソナルスペースというか、他人の存在を気にせずパンツ一丁で過ごせるホームがある。それを実現してるのは透明な窓ではなく、光も風も通さない不透明な壁なんよ。

 そしてその壁の中に、やっと本題、格子で4つに区切られたガラス窓がこさえてある。不透明な壁の中にこの窓があることによって、自分という主体は屋内にいながら窓ガラスを通して屋外の景色を観測できるようになるし、窓を開ければ外界に手を伸ばすことも、声を使ってやり取りすることも、屋内の空気の入れ替えもできるようになる。窓の役割って本来そういうもんよ。

 おまけに今回の建付けでは便宜上、4つの窓はそれぞれ独立して開閉ができるような造りになってて、閉め切った状態でも透明なガラスから屋外の景色を眺めることはできるもの、としましょう。

 さて、肝心の各窓はどんな基準枠で仕切られてるのかというと、図にも書き込んである通り「自分にとって興味がある/ない」と「自分のポリシーと相容れる/相容れない」で4通りの基準になってる。そう、この区分けによって、窓から見える屋外の事象は自分の関心度やシンパシーの有無に応じた枠から観測されるのだ。

 以上が、この図が説明しとる世界の概要です。

 この図はおれなりに思う、「(下ネタじゃないほうの)社会の窓」を表しとる。

 自分の周囲に広がる社会に点在する有形無形の情報、有象無象の主張に対して、自分の眼がどのように取捨選択してキャッチするか。もっと踏み込むと、キャッチした情報に自分がどこまでリアクションするか、ってお話の図解に使えると思うんよ。


 例えばのケースとして3つほど、情報社会のそこらへんに転がってる文章をお試しに拾って、おれ自身の「社会の窓」に近づけてみよう。ズボンのチャックに近づけるわけじゃないよ。



The Rolling Stones以外を「ストーンズ」と呼ばないでくれ
失礼にも程がある

 おれはもちろんローリング・ストーンズ大好きっ子ちゃんなので、「社会の窓」においての横軸、自分にとっての興味の有る無しで言うとこの文章の話題は左側に分けられる。

 ところがこの意見、おれのポリシーの観点から考えるとすこぶる同意しかねるんよな。おれはストーンズの次の来日公演がたとえチケット10万円で稚内でしか開催されないとしても駆けつけたいほどに好きやけど、そのクレイジーな感情は、絶対に他の存在の呼称を限定して拒絶するような負の方向には向かないし、向けない。おれはストーンズに「ブルースってスゴいんやで!」とか「バンドってカッコいいで!」とかっていう、肯定的なことしか教わってこなかったから。

 ということで縦軸で言うと相容れない側になるので、この文章はおれの「社会の窓」の3の枠で観測することになります。そしておれがこの文を書いた奴に「何言うとんねんお前!」と殴り込み(物理的だろうとネット上だろうと)に行く場合に、この3番の窓枠を開放して自己の内面から外の社会へ突入する、という状況が生まれる。もちろんそんなことはしません。何の得にもならんし、返り討ちに遭うのも怖いし。



色々言われて傷ついたけど、何をしても『可愛くない』って言ってくる人は、勝手に言わせとけばいいや むしろ、ありのままの自分を見せて、どんな“ゆりにゃ”でも好きって言ってくれる人を大切にすることを決めた! 

 これはたった今ネットニュースを漁ってたまたま見つけた記事にあった文章です。どうやらインフルエンサーのかわいこちゃんの投稿らしい。おれはTikTokに疎いおっさんなので、興味の有無で言うとこの話題は無し側に分類される。将来的にはワンチャン興味持つかもしれんけど、今のところはね。

 ただ、この投稿で言っておられる内容は至極もっともやと思いました。周りに無理に迎合したって大してええことないもんな。だいぶ年下やのにちゃんとしてて偉いなぁ。よって、この文章が映る窓枠の番号は2になる。

 そんで、これを読んで感銘を受けたおれが心の中で拍手喝采するに留まらずこの子のインスタに「分かる分かる、おれもきみぐらいの歳の頃…」とかDMなり何なりメッセージを送れば、おれは2番の窓を開放したことになる。そんなことせんけど。



Typického tvaru potáče (viz snímek vpravo) se dosahuje tím, že se na dolní části dutinky vytvoří kuželovitý základ, na který se pak šikmo kladou jednotlivé náviny příze. 

 さぁ、これは…何て書いてあるんでしょうね?何語かも何の話題かも、おれの知識ではつかめない。

 こういう文章はそもそもどんな「社会の窓」にも映らないんよ。情報社会の海に確かに存在する記述なのに、おれの視点からはいまいち意味のあるものとして捉えられない。これこそが社会と自己の間にドンとある、不透明な壁による隔たりの一種なんです。図内の番号では5にあたる。たぶん5って書いてある壁の裏側にはこの文章がちゃんとあって、社会の中のある地域で意味を成してるはずや。

 これがさ、もし壁が無かったとしたら大変やで、自分にとって意味のつかめん物事まで勝手に次々に眼に映るとしたら…図の中の自己みたいに呑気に煙草吸ってパンツ一丁でなんかいれないよ。ガラス張りの家ではいくら閉め切ってたってくつろげんでしょう。

 まぁ実際はこの文章も、事例を挙げるために意図的に引っぱってきたもんやから何について書かれとるかだいたい分かってはいるけどね。ラムズフェルドの発言にも繋がるけど、自分が完全に認識できない事象はその存在は意識できても、その具体例を自分で作るなんてことは不可能なのだ。せっかくならこういうことを突き詰めて書けば哲学者っぽいスマートなエッセイになりそうやのに。

 ともかくこのケースではそもそも窓に対象は映らんから、窓を開ける開けないの話にも進んでいかないってことやね。


 ということで、おれが提示したこの「下ネタじゃないほうの社会の窓」の図は、自己がどのように社会に存在する対象の事柄を認知して、それを眺めるだけにするかそれとも窓を開けて対象に向かっていくかを判断するメカニズムみたいなものを、粗々ながら表しとる。

 そんで、何となくおれは、自戒の意味もあるけれど、この「社会の窓」の扱い方、とくに開け閉めの行儀がお粗末な人々って、現代に少なくないと思うんよ。


 長いので(下)に続きます。下ネタの下、じゃないよ。










 そう言えば金玉とAirPodsって、失くしても片方だけで最悪使えるって意味でも似とるよね。





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