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もう一度真っ白を真っ白として見るために、今のおれに足りない色は何色で、それはどこにある?

  • 執筆者の写真: bunkeiedison
    bunkeiedison
  • 2023年7月21日
  • 読了時間: 6分

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時の流れに身をまかせ あなたの色に染められ
一度の人生それさえ 捨てることもかまわない
だから お願い そばに置いてね
いまは あなたしか 愛せない

───荒木とよひさ(作詞)「時の流れに身をまかせ」



 人にものを教えるにせよ人にものを教わるにせよ、何かを知る瞬間っていうのは、人生において結構な重大案件や、と思ってきた。人間、何かをひとたび知覚してしまったらもう、何ひとつ、本っ当にな〜んも知らん状態には二度と戻れないもんな。

 年を取るっていうことは、かつては自分のまわりに壮大に広がっていた真っ白なフロアが、経験というカラフルな足跡によってどんどん減っていくことでもある。やから、何でもかんでも「情報が命」だなんて慌てて知識をむさぼることなく、寿命を全うするうえで飽きない程度の「知りしろ」「教わりしろ」は適度にお楽しみに残しとったほうが良い。20代の頃のおれは、そんなふうなことをエッセイに書いた覚えがあるよ。

 足元に広がりすぎた着色を戻すためにこそ、年老いた人間には「もの忘れ」という消しゴムが与えられるんじゃないか、みたいな話で締めてたような気がする。

 さて、そういう「知覚の色」が着いたエリアっていうのは、もの忘れ的なランダムイベントを除けば、原則的にはもう二度と真っ白には戻せないんやろか?…今まではそういうもんやって思い込んできたけど、最近になって、この不可逆性にいっちょ反駁したい気がふと湧いた。

 すごいやろ、30代に突入したおれはやっぱり昔とは一味違うのだ。たまにはこんな閃きもなきゃ、大人になってく意味が無い。



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 子どもの頃(というか今でもやけど)、そんなアホな!と思った原理に「光の三原色」というのがある。真っ暗な空間で赤・緑・青の照明を重ね合わせたら、三重になった部分だけ真っ白の光になる、ってやつ。

 なるほど、例えばおれが暗室の中にいて備品に緑色のライトしか無いときに白い光を見たいと思ったら、おれに出来る行動は赤と青のセロハン紙を持ってきてもらうようにお願いするか、それとも備品のライトに貼られた緑色のセロハンを野蛮に引っぺがすか。その2択になるんやなぁ。


 さて、舞台を暗〜い部屋から世の中一般に移してみると、「色眼鏡でものを見る」っていう慣用表現はあまりよろしい意味では使われないんよね。逆に言うと、「色眼鏡を外して世間を見なさい」っていうメッセージが良しとされるわけ。

 けど、光の三原色の仕組みを援用して考えたら、色無しで世間を見るって目標には、既にかけちゃった色眼鏡を外さなくても済む別の手段があるわけよ。つまりいわば、「緑の色眼鏡をかけたなら赤と青の色眼鏡もかけて世間を見なさい」、っていうアプローチでも同じように無色真っ白の光を取り戻せるはずや。まるで「心の壁、愛の橋」のジョン・レノンみたいな眼鏡まみれの顔して。


 そう、何のことはない、人生における「知覚の足跡二度と消えない問題」も同じじゃないか。何も知らなかった頃は真っ白やったエリアにひとたび色が付いちゃったんなら、いつ来るか分からない、どこを消されちゃうか分からない「もの忘れの消しゴム(=これが本当のMONO消し、なんつって)」をただ待つよりも、積極的に違う色による知覚を塗り重ねてしまえば良いのだ。そう、同じ事象に対して3つの異なる見地から知覚を重ねれば、そいつはある1色に偏らない真っ白なものの見え方に舞い戻るかもしれないよ。


 戦争、犯罪、差別の消せない歴史があって、それを将来を担う子どもたちに一切伝えないことこそがそういうネガティブな過去から来る偏見の解消に繋がる、みたいな主張がたまにある。真っ白の状態を作り出すには有効な手のひとつかもしれんけどさ、それはおれには、例えば人間全体の営みの意味が実は神様からの命令で有史の発端から総動員でバカでかい「人類史ライトスタンド」みたいなものをこさえることやとしたら、その過程で不幸で理不尽な負い目をなすりつけられた人たちが生み出したセロハンだけを、不都合なモンとして別の立場の人間が勝手に問答無用で強引に引っぺがして、真っ白の光源を確保しようとする行為に見える。そんなら今後も色の付いたセロハンが出てくるたびに捨てていくのか?それって意外と、野蛮なんだよ。


 まぁ、おれの言うところの色眼鏡をかけていくってやり方かて、いっぺん色の付いた領域を何も知らなかったときの真っ白さに完全に戻せる、とは考えてないよ。あくまでも真っ白に見えるようにするだけ。出来上がった白さは実のところ、プラトンの洞窟の比喩みたいな仮りそめ的なもんに近いかもしれん。

 けどおれが好きなものって落語にせよ音楽にせよ、人間の業を肯定してくれるものばっかりやから、どんな色の業であれ、引きちぎって捨てていくことには抵抗感があるんよ。何色のセロハンであれ捨て去るくらいなら、自分が新しく身に着けた色のセロハンでもって重ね合わせて、自分だけに見える真っ白を目指す。そのほうが、ただおとなしくボケるのを待ったり問答無用で事実を無かったことにしようとするより、よっぽど生産性があるじゃないか。人間のやってきたこともむやみに捨てないで、SDGsを持ち込まんかい。


 こう見えておれは生まれて30年ほど、自分にできる範囲ではいろんな世界をそれなりに経験してきたほうや。調子づいてるときに得た知見とどん底でつかんだ知見はまるで色が違うし、文系的な仕事と理系的な仕事では必要な知識は変わっていく。すると自ずと、例えばあるバックグラウンドを持った同じ人に対する印象も、今のおれと昔のおれでは見え方が違うし、逆に他人からの見られ方も同様に変わってく。その過程で揉まれながら順番に手に入れてった知覚の原色たちを重ね合わせてこそ、おれは真っ白が見える色眼鏡を作りたい。拾ってきた色付きレンズをただの1枚も無駄にすることなく。それが出来たら、「色眼鏡なんてかけてませんけど?」と言わんばかりにお高く止まった知識人どもの無意識に濁った目より、よっぽどピュアな光を浴びれる気がするんよ。見慣れないようなものに出くわしたときも自分のスタンスに偏らんような、そういうものの見方を、おれはいつまでもしていたい。じゃないとおれの審美眼はいつか、子どもの頃の自分の澄んだ目に負ける。


 もう一度真っ白を真っ白として見るために、今のおれに足りない色は何色で、それはどこにある?

 日々の暮らしは、まだ色の濃いグラサンでそれをへらへらと探しとるような、そんな感じがする。












 その点、テレサ・テンはすごいよな。あなた色のたった一色に染められて人生捨てても構わんなんて!それはもう、真っ白よりも純粋じゃないか。わしゃよう言わんわ。



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