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  • 執筆者の写真bunkeiedison

誰にでも来る一秒一秒じゃなくて、おれの生活丸ごとを伝えるような時計が欲しい





作曲は一つのこと、演奏はもう一つ別のこと、聴くことは第三のこと、この三つの行為に価値の差は存在しない

──ジョン・ケージ

 おれの場合は「楽器作り」という行為もこの並びに入る。ギターを1本作ることは上に挙げられた3つと同等に楽しくって、面白い。



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 考えてみれば、時計ほど「精度」と「遊び」が同居した装置は無いかもしれんね。

 時計が指し示す時刻という情報は、時差とかは抜きにすると万国共通なものでしょう。世界じゅうのどこにいる誰のもとにも、たった今おれが迎えた22時44分はそのうちやってくる。そういうワールドスタンダードな性質だもんで、時計の情報は正確であればあるほどありがたがられる。

 かたや、時計の持つフォルムの話で言えば、本っ当に千差万別の見た目や仕組みを各々が持っとる。アナログ・デジタルの違いはもちろん、大きさはビッグベンからチプカシみたいな小ぶりの腕時計まで、仕組みは機械駆動から日時計なんて代物もある。何なら目に見えるもんだけに限らず、例えば体内時計なんていうのも立派な時計の一種でしょ。

 そこそこの技術基準を満たしてたら時計の精度は担保されとる現代において、時計の価値を決める要素は、きっとこの多様な遊びを含んだフォルムの差なんでしょうな。同じ腕時計でもさ、電波・ソーラー完備のG-SHOCKとロレックスでは、精度の差じゃ説明がつかない価格の差があるもんね。どっちも文字盤が示す情報は、誰にでも来る一秒一秒なのにねぇ。

 そう、この時計という界隈は、「実益のある」正確な時刻という情報の精度より、その情報のガワの部分であるいわば極端な話をすれば「代えがきく」装飾やデザインといった遊びの側面が市場価値という現実的な目に見える差を決定していて、しかもその風潮がこの無駄を許さない現代社会においてもバリバリに市民権を得つづけているという、珍しい世界なのだ。凄ないか、遊びが精度に勝っとるんやで?おれはこういう遊びに価値を認める分野は嫌いじゃないよ。値段的には無縁な業界やけど。


 話は変わるけど、「時計」の真逆にあたる装置って何かあるかなぁってことも同時に考えとったんよ。何かについて考えるときは隙さえあれば対象の逆や裏を取るのが、ナンセンス学派の思考のクセなのだ。そんでさ、おれはそれが「書籍」やと思ったよ。おもろいじゃんか、時計の反対が本、ってさ。

 時計の持つ二面性を「精度」と「遊び」から「単一性」と「多様性」ていう見方にシフトしてみよう。この時計という装置はさっき言ったとおり、外見のフォルムが多様で中身の情報が単一な性質を持っとるわけやん。ということは、時計の真逆になる存在は外見は均質なのに中身がバラエティ豊かなモノやったら良いわけや。

 それでいくと書籍という装置の外見は、聴く読書なんかは最近やっと人気が出てきたけれども、人類が口と記憶による情報伝達に限界を見てから現代に至るまでの期間で多少の定義のブレはあっても基本的に「手に持てるサイズの何かに文字や絵が記されたモノ」っていう、時計に比べれば遥かに画一的なルールで受け継がれてきた。それに対して、その書かれた中身の情報は、実に多岐にわたるあらゆる事どもでしょ。真偽も時制もいろいろ、笑いあり涙ありエロ本あり。

 ね、本と時計って、そういう意味では真逆やと思わないかい。学生の頃に何気なくブックオフで買ったボロボロの文庫本は、装丁に心惹かれて手にしたわけじゃないのに、中身を読んでみると引き込まれて己の思春期を象徴する一冊になるほど熱中し得るもんやったやん。反対にさ、憧れのオメガの腕時計を手に入れた人が感動するのはきっとそのフォルムを自分の腕に巻いた瞬間であって、文字盤が指す時刻を読んで泣くことはないよな。

 図書館の棚って、本の外身のサイズの事情もある程度あれど、基本は中に詰まった情報のジャンルや五十音で区分されとるよね。いっぽうで時計屋さんが腕時計をショーケースに並べるときの基準は、時計が表す情報やとどれも同じ時刻やから、逆に外見のブランドやそれによって変わる価格帯が最も重視される。無造作にタグ・ホイヤーとQ&Qをショーケースの隣同士に並べたりしないでしょ。そういう違いを言いたかった。



 さて、やっと本題や。今挙げてきたここらへんの話が、おれが今年の半分をかけたギター作りを通して、古い振り子時計をひっくり返したようなギターをこさえたきっかけに繋がる。

 インスタ上で写真は撮ってきたが、今までの工作の場合はそれだけじゃなく、ある程度製作過程とか出来上がったあとの音色や機能の紹介なんかも映像や音声や文章の形で記録してきた。けど今年は趣を変えて、作ることに決めたそもそもの衝動の要因のほうだけをこの場に残しておこうと思う。実物の音や佇まいは、興味あったらうちに来て弾いてみてや。うまい酒も出すし。



 まず、日常を生きる野良ナンセンス学派のおれにとっては、前段で書いた「肝心の正確な時刻という実益のある情報より、ブランドや高級さみたいな性能に関わりない外見の差が価格上で重視される」っていう時計の価値観って、無駄を礼賛しとるという構図ではナンセンス寄りではあるんやけど、おれの暮らしぶりからは立ち入ることのできない畑なんよ。だってひとえに、そこは価値を表す基準が実際のカネの世界なんだもん。

 そんで考えてみりゃ、市場価値が認められたナンセンスなんて、それはもはやナンセンスじゃなくなっちゃっとんのよ。低コスト高パフォーマンスが求められる社会常識においてセンスとなる元々の命題が「時計は精度が高いほど良く、価格は低いほど良い」だったものが、「時計は精度が高いに越したことはないが、高級な外装に比例して価格が高くなるのもカッコ良い」っていうイレギュラーを起こした、そこまでは良い。それがなぜか常識を司る大人社会で広く承認されとるんよね。これが時計じゃなくて例えば巻尺の話とかやったら途端に変人扱いやのに。

 無駄で遊ぶ、無駄を愉しむ、という一見して非常識的な価値観が社会で市民権を得た結果、「高級時計は男のステータス」みたいな常識として定着しているこの現象は、市井に暮らす貧乏ナンセンス愛好者の目には、「もういっぺんひっくり返したくなる」衝動に駆られるテーマとして映るんよ。時計におけるナンセンスを自分にできる範囲で今一度見つけたくなる、というか。

 

 やからおれは、時計をモチーフにしたギターを作って、そいつに今までの時計に無かった性質を持たせてやろう、というナンセンス計画を立て始めた。

 そのフォルムが物理的に古時計を天地逆に「ひっくり返した」デザインやったのは、その意図の一環であり、挨拶代わりの先制パンチや。そう、単に見た目を上下逆にしただけが、時計をひっくり返す手段の全てではないのよ。このギターにはもうちょっとだけ時計を「ひっくり返した」意味がある。


 先の文章でおれは高級腕時計を買った人は文字盤の時刻という均質な情報で心揺さぶられることは無い、みたいなことを書いた。その人にとっての感動ポイントは、その腕時計を買った事実やそれを巻く自分の外見のほうにウェイトがあるんちゃうかと。なので、おれは針を取っ払った時計の文字盤の上にギターの弦を張ることで、時計が示す情報を「誰にでも来る時刻」から、「おれが弾く音」に変えてやった。この瞬間に、おれの時計は毎日世界中どこででも体験される情報とは違う、個別の重みを持った意味を伝える装置になったわけ。

 おいおい、果たしてそれを時計というのかって?まぁ、細かいことは良いじゃないか。おれがこのギターで弾く音はそのときに抱いた気分や歌いたい歌をも乗せるやろうと考えれば、このリゾネーターカバーみたいな外見をしたおれの時計の文字盤は今後、おれの生活丸ごとを情報として伝えるんやから。まずはその面白みを享受しようぜ。

 ここで少し話を逸らしてしまうけど書いておきたいことがある。時計の文字盤が示す時刻という情報が、誰かにとって特別な意味を持つというケースは、こういう突飛な試み以外でも存在する。おれはそれを去年、12年前の津波で被災した遺構を巡っているときにとある学校で見かけた、津波の到来時刻で止まったままの時計に感じた。あの時計が示す時刻を読むとき人は、他の時計でも他の場所でも、ましてやその時計のメーカーやデザインでもなく、ただそこに置かれた時計が指す時刻に思いを馳せる。何となくあの時計だけは人にとっての書籍というか、「アルバム」みたいな役割やった気がするなぁ。そういうような性質を持った時計の文字盤も世の中にあるということは、旅の経験で知った。

 

 そして、これは今回の工作に限らずおれがだいたい年1本のペースでギターを作るときに必ず感じてきたんやけど、何を手作りするにしてもその完成品っていうのは、後々になって製作者のその年の暮らしぶりや気持ちやイベントみたいな思い出を象徴するものになるし、その作品を使い続けることはその思い出に自分の生活を塗り重ね、馴染ませていくってことなんよ。今おれの家には4年前と2年前のギターがいるけど、それらをたまに眺めたり弾いたりしとると、まぁ本当にそんなふうなことを思う。

 やからさ、針も振り子も無いからって、今回作ったこのギターのような時計のような代物が、「時の流れを刻めない」なんて舐めるなら大間違いよ。文字盤が奏でる音だけじゃなくその存在全体をもってして、こいつはこれからもおれがこれを作った2023年という年と、今後のおれの生活を指し示し続ける。何なら誰かの前で弾く機会があったら、その誰かの暮らしにもこいつは触れる。そう、これは立派な時計なんだよ。その進み方がおれの生活の流れ次第なだけ、ペースの精度を度外視してるだけでさ。


 な、おれの今回作った時計は、世にピンからキリまで時計多しと言えど、珍しいことこの上ない、時計の常識をひっくり返した「中身も外身も遊びだらけ」の立派な時計や。

 今のおれの暮らしを伝えれるのは、世界中でこのボロ時計しかない。この生活はハリーウィンストンでもフランクミュラーでも刻めない。高っけえ時計で読める時刻なんて文字盤のぐるり一周だけ、たかが知れとる。要るもんか。悔しいから言うとるんちゃうで。自分の稼ぎで買うた高い時計を愛情注いで使っとる人はやっぱ尊敬しちゃう。何か間違いでもありゃ何十年か先にその畑におれも入れるんかしら。いや無理か。じゃあ要るもんか!


 また暇やったらこの時計の刻む音でも聴きに遊びに来てよ。このうちの生活の音は、このうちでしか聴けんのだ。





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