最近の若いモンは夜行バスの車中でこんなことばっか考えるんか
- bunkeiedison
- 2023年2月12日
- 読了時間: 15分
更新日:2023年2月14日

タイムパフォーマンスなど考えるほどバカらしい人生はない。コスパも同様だ。新幹線のスピードが上がり所要時間が縮まって便利になったというが、大間違いだ。それは、途中の田舎の景色が記憶に残らなくなることだ。旅の味などあったもんじゃない。
───井筒和幸監督が「タイパ」に苦言!映画の倍速視聴をバッサリ「映画は他人の人生につき合って、どこまで人間らしいかを見つめる装置」
https://article.auone.jp/detail/1/5/9/218_9_r_20230117_1673939982595952
もう今からずいぶん前、ユニクロがウルトラライトダウンを売り始めた頃。その新製品のCMにこの人も出てて、よくテレビで流れてたんよな。当時のカリスマモデルの女の子とかと一緒にライトダウン試着して、軽さとかあったかさとか誉めそやす、みたいな内容やったと思う。
そんでそのときに井筒監督がさ、ただユニクロの白いダウン着ただけのモデルさんを見てボソッと、「お姫さまみたいやな…」って言っててさ、おれそれ、初めて見たとき床転げまわって笑てもうたんよな。何がおもろかったんかは説明できないよ。でもめちゃめちゃウケてひいひい笑っちゃった。お姫さまみたいてどういうことなん。なにごとなん。
この監督の名前を見ると未だにあのCMが頭に浮かんじゃうんよ。イジっとるわけじゃないよ。理屈とか正負の感情とか抜きで、ほんまになんでか分からんけど、ただ笑っちゃうんよ。たぶん、人生で見たCMでいちばんウケたのはあれやろうな。今も思い出し笑いしながらこれ書いとるもん。
もっかい見たいんやけど、なかなか動画見つからんのよなぁ。このCM、覚えてる人いません?
タイパってのはおれ、去年の流行語大賞の話題でやっと知った言葉やわ。おれも監督といっしょで、こんなのはいただけない概念やとは思うよ。
やってさ、おれのえらく気に入ったあのCMかて、例えば録画してた金曜ロードショーを見返すときにさ、映画の途中に挟まるCMを「時間の無駄!」と思ってスキップしちゃったら見逃しちゃうわけやもんな、あんなおもろいセリフをな。
…まあ、今の例えは本質突いてなさそうや。映画の合間のCMはもともと映画が意図して挿れたもんじゃないもんな。分かってるよ。
なんでもかんでも「生産性や効率化だけの価値観、ファストライフ」はいただけないのは概ね監督と同じ気持ちなんやけど、おれはそういうものにわざわざ目くじら立てたりまでは思わんのよなあ。彼が映画を生業にしとる人なだけに、熱量を持って意見せずにはいられんっていうのはもちろん分かるけどね。世間の流れに対してプライド持って一家言ぶちかませる人はおれ、むしろ好きよ。
自分の場合、こういう話題を耳にしたって、それに瞬間的に反応することなく頭ん中で暇つぶしにボーっと牛の反芻みたいに考えて、そいである程度じゅうぶんこねくってからやっとこさ外に吐き出すから、表向きには結局「まぁ、どっちでもええんとちゃいますか」みたいな感想で落ち着いちゃうことが多いんよな。脳内っていう自分のキッチンで作ってるときはアイデアがアチアチでパンパンに膨れてても、それを食卓にお出しするときにはもう、冷めちゃって形もこじんまりおさまっちゃってんのね。
せめてたまには、まるでカツオの藁焼き専門店みたいにさ、炎ボウボウの厨房のようすもお客さんのテーブルから見えるようにせんとイカンよな。じゃなきゃおれ、何に対しても「どうでもええわ」で冷笑しとる思考停止のニヒルな連中と、見た目の違いが付かんじゃないか。
定期的にこうして文章を書くのはおれにとって、そこらへんから来る危機感みたいなんもあるかもしれんな。エッセイとは、自分の思考の藁焼きなのだ。
そんでさ、一体何をここんとこボンヤリ考えとったかっていうとさ、まず、ファスト映画なり時短なりをありがたがる連中っていうのは、本来の時間感覚でモノを楽しむ人らにとっては、実は言うなればシーソーの反対側みたいな存在なんじゃないか?って思ったんよ。映画の楽しみ方っていうのにもし人格があるとすれば、彼には今までそういう、対になってギッコンバッタンできる相手がいなかったんちゃうかと。
時代が過ぎたはずが最近になってまた需要が高まっとるもんってあるやん、例えばフィルムカメラとかアナログ盤とか。そういうのの再興って、それらと対になる、比較的新しいモノの流行がその条件にあると思うんよ。
うたい文句でよく聞くやん、「無制限に撮り直せたり加工できたりするスマホには無い、一期一会なフィルムの魅力」やら、「好きな曲を好きなだけピックアップできるサブスクには無い、1枚のアルバムとして味わえるレコードの楽しさ」やら。そういう表現って、本来フィルムやレコードが苦手やったことを克服した新世代のデバイスなりガジェットなりが現れて世界を席巻したからこそ、逆にアナログの良さに回帰する「通な人」が出てくるようになったことの証左ちゃうかしら。
考えてみればもともとフィルムカメラやレコードプレーヤーが業界のスタンダードやった時代は、「あえてアナログを選ぶ」って考えじゃなくて「アナログしか選択肢が無い」って環境なんよな。やから「レコードの温かみ」的な類の言葉、当時はきっと無かった思うんよ、そもそも「デジタルは冷たい」って概念が無いんやから。温泉でもさ、ぬる湯の風呂が隣に無いときは、一種類しかない45℃の風呂にわざわざ「あつ湯です」って書かへんやん。その温度のお湯しか無いんやもん。
ほんで、選択肢が他に無いということは、当時のアナログを嗜むユーザー層ってのはほんまにその分野の全人口に等しかったはずで、そういう他の比較対象もない状況では「これだからアナログはやめられない!」みたいな意識って、もちろんその魅力を特別に感じてる人の内心にはめちゃめちゃにあったんやろうけど、すんごい潜在的なもんやったんじゃないかな。
要するに、もともとピンキリやったユーザーの幅の中で、時代とともにデジタルの便利さを享受する方向に大部分の人が移行していったからこそ、あとに残されたデジタルに目もくれずアナログを楽しむユーザーっていうのは、あえて好きこのんでそれを選ぶような、いわば「ピュアな好き好きこだわり層」として純化されて顕現したんじゃん、ってこと。そう、シーソーが浮上するには対極の存在の重みが必要なのだ。
さて、この関係を映画に当てはめるとやな、映画のウィークポイント(※おれ個人は全く弱みとは思ってへんよ)である、「鑑賞するには同じ場所に2時間ほど拘束される」っていう部分を解消するために現れた新進の娯楽様式の「原始の姿」こそが、こういう無茶なファスト映画や倍速再生なんじゃないか、って思うのだ。ここであくまで原始の姿と書いたのは、もともと2時間映画として作られた作品を無粋に編集したような哀れな代物を、おれがそのまんまフィルムカメラに対するデジタルカメラみたいな存在として正当に扱ってるとは安易に思ってほしくないからよ。
そう、この時短志向に本当に需要があるのなら、将来的にいつかは正規に製作段階からファスト映画用に作られたメディアが開発・確立されるはずなのよ。それが無い状態で世間に目覚め始めた需要にお粗末なりにも呼応して生まれたのが現状のファスト映画っていう悲しきモンスターなだけでね。
じゃあ、正規なフォーマットたるファスト映画ってどんなんやろうな?おれはそういうテクノロジーには明るくないから適当なイメージで話をするとさ、撮影する映像の、fpsって言うんかね、そういうコマ数とかが、車のミッションで言うところのCVTみたいな、ものっすごい可変式になってて、それを鑑賞するための映画館的な場所も完全個室で、訪れた個人個人が「このあと30分後に美容室行くから4倍速で」「今日は彼女とイチャイチャしたいからゆっくりノーマルスピードで観るかぁ」みたいに任意に再生スピードを選べて、どんな長さで見ても不自然なく映像と音声が再生される、とかかしら。知らんけど。
そういうメディアが市民権を得た時代が来たらば、もうあとは、いつものパターンよ。映画が時短を重視したポスト映画的存在にお株を奪われようが、「個々人が効率的に情報を見るような無機質なファスト映画では味わえない、映画館というひとつの場所で感動を共有する映画のライブ感・一体感」を求める「通な人」はいずれ必ず現れるって流れになる。
やからさ、どんな業界でも同じで、固有の長所や魅力を持っとるモノって、それをありがたがる人は時代を経ても消えないと思うよ(何ならそれってモノだけの話じゃなく人間にも当てはまることかもしれんけどね。それはたぶんまた話長なるから、今度ヒマなとき別で考えよう)。そんで、そういう時代を経てもなお淘汰されず残ったモノをあえて楽しむ層っていうのは、その対象に対してそれはそれは並々ならん愛情を持ってると思うんよな。わざわざ選択肢が他にもあるのにそれを選ぶ物好きなんやから。
ということで、映画がタイパ重視の世の流れを受けて人気を落とそうが、逆にファスト映画の隆盛をねじ伏せようが、おれは別に映画の良さ自体が完全に消え去るとは思っとらんから、そこまでカッとはならんねん。
監督の場合は、映画っていうフォーマットに恋しちゃってる立場やからこそ、過渡期の到来を察知して怒ってはるんかもしれんけどな。それも分かるよ、そこは理屈じゃ片付かへんもんな。どんな思考よりも先に届くのは、好きなものから得た初期衝動やとおれも思う。そらあ、自分が魅了された映画という娯楽の王様が初めてその席を脅かされるかもって考えたら、苦言も呈すわなあ。
う〜ん、いやでも、この話を映画じゃなくておれ自身が好きな他のモノに置き換えて考えたとしても、おれのスタンスは基本的に変わらんかもな。「おれの好きなもんとは別モンの代替品が出てきても、おれが変わらずそれを好きやったらどうでもええやんけ」って感じ。なんかいやに冷静な感じ、カッコつけてるみたいで我ながらムカつくなあ。
でもそれはね、悲しいかな、おれの好きなもんって得てして、おれが好きになった頃にはとっくにシーソーの相手にメインの座を取って代わられてた存在ばかりだからなの。フィルムもそう。レコードもそう。CDもそう。車もそう。バイクもそう。落語もそう。コンプラ度外視やった頃のアメリカンプロレスもそう。一時代の終焉をすでに一度は迎えた感のあるモノたちばかり。やから、おれは井筒監督の映画に対する熱意ある擁護論みたいなんをそれらに対して抱こうと思っても、「まあでも正直、もう一旦終わっとるのは事実やからなあ…」で、シュンてしちゃうだけなんさ。
でも、そんな中唯一事情が違うかもな、って思うのは、煙草かな。値が上がる分にはいいよ。手が出しにくくなればなるほど、ますます自分が「通な人」っぽく感じるし。でも、こいつがいつか、禁止薬物みたいな扱いになって完全に終焉したとしたら、その後は逆立ちしたって先のアナログ機器の場合みたいな、好きな人は嗜み続けれるみたいなカムバックは出来ない気がするよ。需要の変遷で終息するんじゃなく、絶対的な規制で消え去るのは、シーソーから煙草という概念自身が降りちゃってどっかにいなくなるのと同義や。それは大袈裟に言えば、喫煙っていう文化の不可逆的な喪失みたいな感じに聞こえる。まあこれは本質的に話が違うから、こいつについても安易に激情的に怒ったり逆らったりはせんけどね。吸い殻になりつつあるこの文化を、ただ黙って見つめてる。
なんだか湿っぽくなったから(シケモクだけにね)本来の話題をもうちょいピリっとした方向に進めるけどさ、そもそもこの時短だの効率化だのの論争って、しょせん単純に相対的な目線にとらわれただけのお話では?とも思ってきた。冒頭に引用した監督さんの新幹線云々の言葉にやっと触れるが、これってさ、よくよく考えたら、遥か昔から続くかの悪名高き「最近の若いモンは」構文の亜種じゃないのか。
真っ黒い汽車に乗ってたような井筒監督よりおじいちゃんの世代はただの特急列車の車窓さえ「せわしなくって無粋なこっちゃ」と嘆いたろうし、新幹線によく乗るような井筒監督の子ども世代のおれらやって、将来リニアがビュンビュカ走り出したら「速すぎて富士山も見えんわい」なんてボヤくようになる、って思えんやろか。
もっと言うと、これって時代の経過による技術の発達や列車の速度アップだけに影響される問題でもないと思うのよ。のんびりしてた時代の在来線に乗ってようが、手にスマホなんて持ってなかろうが、な~んにも考えてない奴や逆に仕事のことで頭がいっぱいの奴は昔も今と変わらず一定数いたはずで、彼らにとっちゃ田舎の景色なんぞ、目に入ったとしても能動的に見ちゃいなくって、記憶にも印象にも残ってないかもしれんじゃんか。
もし監督さん自身がそういう田舎の景色を鮮烈に覚えてる体験からこれを書いたんやとしたら、それは自分の職業柄から来る観察眼なのか、そういう電車に乗ってた頃の自分の生活事情や心情とかに車窓の眺めが何らかの情景としてリンクしたからじゃないんかな。そういう話ならきっと、新幹線に乗ってる若者だって、N700系の車窓から見た忘れられない光景は抱え得ると思うんよ。そう、それが文字通りの田舎の景色じゃないにしても、監督にとっての「田舎の景色」的な存在は若者にだって見つけ得るってこと。
だから、「最近の若いモンは」「これだからZ世代は」じゃあないんだよ。おれ自身がまだどっちかというと「若いモン」の世代寄りに位置してるからこの構文を嫌ってるんじゃないよ。この言葉はひとえに、実質的には同じ体験を共有できるはずの己の世代と若い世代との間に、ありもしない断絶の溝を、浅はかな相対関係だけを根拠に、無責任に作りよる。そんな溝を一方的に掘られたらさ、おれはそういうジジイ世代と仲良くなろうと思うとき、わざわざこっちからその溝を越えるって無駄なステップが発生するんよ。それでやっとこさ越えてみたところで言われんのが「若いのによく知っとるなあ!!実はワシと同い年かあ?!」。勘弁してくれよ。溝の向こうにおれ以外の若者が取り残されたままやないか。
便利になった世の中じゃ自分たちの世代が味わえた苦労や成功体験を若者が味わえてないなんて言って、勝手に決めつけて嘆くのは止そうよ。まあまだボヤく程度なら良いが、これに憐憫の情が乗っかると、なおさらタチが悪いよ。マスクばっか着けて距離ばっか取って青春時代を過ごした世代はかわいそうだ、とかさあ。そう思う気持ちは分からんでもないし、おれも初めはそう考えとったけど、かわいそうな青春やったかどうかを決めるのは、間違っても傍から見とっただけのおっさんおばはんじゃないよ。当の本人たちが何年後かに酒でも飲みながら振り返るときに、その判断は任せときゃええやんけ。
せっかく全世代がマスクばっか着けて距離ばっか取る時代を共に過ごしたんやで、この多様性の時代に。それならいっそそれを絶対的な共通テーマと捉えてさ、世代の壁を越えて体験を共有したほうが仲良しこよしやし、それこそフォークってもんやと思うけどな。
新幹線の話に戻るけど、言いたいのはだいたいそういうことなんよ。単なる運行速度や利便性だけの相対比較なんてしょーもない視点から、せっかくの「旅の味」を解放してほしいんよ。
同じ新幹線に乗っとる乗客でも、切符を買う金の工面や目的地や目的や同乗者や今までの乗車経験の有無や、そういう個人的な諸々の事情を踏まえるだけで、そのスピードは彼らそれぞれにとって光ほど速くもなるし、もどかしいほど遅くもなる。その確かな体感を、他の乗客と比べたり、ましてや他の交通手段と優劣を付ける必要なんて、本来無いんよ。自分の中で大事に持っとるだけで良い。いや、もっと良いのは、それをあくまで自分固有の体験談として他人と共有することか。そのほうが楽しいかもしれんな。でもそこで安易に相対比較を持ち込んでくるような輩は放っとこう。「ふーん、でもその場合は新幹線で行くよりLCCのほうがコスパは良かったかもよ」とか。じゃかましいわ。
ほんで交通手段といえば、今おれは大阪から新潟へ向かう夜行バスの最後尾右側に座って、そんなふうなことを考えとるわけで。
夜行バスって好きなんよな、おれ。思うにその好みは単なる他手段との価格の比較から来るもんじゃなくって(言うても最近のおれは最安の4列シートじゃなく3列独立を選んじゃうダンディな大人やし、そこまで値段的にお得でもないよ)、この話で言うところの、移動に関わるいろんな側面を実感できるところが好きなんかもしれんわ。
長距離バスに乗るときは、ただ乗り物のほうから快適な移動の提供を期待するだけじゃあイカンのよ。乗ってるおれらのほうでも「快適に運ばれたい」と願って自分なりに工夫を凝らしてこそ成立するってもんでさ。本読んでみたり、姿勢変えてみたり、眠りに落ちれるところを意味もなく引っぱってみたり、ド深夜のSAで冷え切った空気のなか煙草を吸ってみたり、はたまたこうしてしょーもないこと考えたり。こういったごく個人的な営みがその内情にあるにも関わらず、真っ暗なうえにカーテンの閉め切られた景色の見えないバスの移動では旅情もメリットもヘッタクレも無いなんて、言えるだろうか?それはあまりに評価基準が画一的で無粋やと思うよ。なんかそれって、ローションマットでされるがままに気持ちいいサービスを受動的に享受した経験しかない、素人童貞みたいだよ。
バスはおれを運んでくれるし、おれのほうも能動的にバスに運ばれようとする。そう、この新潟行きの夜行バスは、いわば約10時間にわたるおれとバスとのエッチなのだ。これがほんとのカーセックス、なんつって。確かに旅情もヘッタクレもないなあ。眠いなあ。
でも、こういう系の概念って、「映画は他人の人生につき合って、どこまで人間らしいかを見つめる装置」なんていう監督の映画観にも多少は通ずると思うんよ。与えられたバスの座席の揺れや窮屈さの中で工夫しながら、おれはこうやって、自分の価値観を見つめてるわけやん。
ただしこういうことって、バスや映画みたいなある特定の装置でしか出来ない、とは思わんのよね。新幹線に乗ってたって船に乗ってたって、あるいはひょっとすると映画に代わる新しい形の娯楽を鑑賞してたって、映画で見つめられる人間らしさに匹敵するような何かを見出すことは、不可能じゃないはずや。人にはそれぞれ、人に合った目があるからな。
注意しておきたいのは、その装置となるモノ自体に、それと対峙する人の思いを受け止めれるだけの遊びというかゆとりというか、何かしらのポッケがあったほうが、そうした営みが気楽に行えるのは事実でしょうね。やから、おれ個人的には件のせわしない「生産性や効率化だけの価値観、ファストライフ」、つまりタイパコスパの礼讃は、いただけやしないよ。もちろんそれらを本気で楽しめてる人がいるんなら、それを否定する気はさらさらない。こっちを否定してこない限りはどんな人とも仲良しこよしするのがおれのモットーや。
というわけで、頭であれこれさんざん考えたうえで、結局最後に口から出てくる言葉は、「まぁ、どっちでもええんとちゃいますか」になる。やっぱり冷たいよなあ。
でもさ、どうでもええとは言っとらんねん。どっちでもいいから、その与えられた装置で胸張って何かを見つめとったら、それでええんとちゃいますか。各々がそこに何を見たか、老いも若いも車座になっておしゃべりしようよ。倍速じゃなくゆっくりでいいんで。
コメント