わたしの気さくな死生観


縄文人の寿命は31年だった
──ところで、動物の生きる時間、つまり寿命も体重の4分の1乗に比例するのですか。
本川 だいたいそうです。だからおもしろい計算ができるんですよ。実は哺乳類の場合、いろんな動物の寿命を心周期で割ってみますと、15億という数字が出ます。つまり、哺乳類の心臓は一生の間に15億回打つという計算になるわけです。
ハツカネズミの寿命は2−3年ですし、インドゾウは70年近くは生きますから、ゾウはネズミよりずっと長生きなのですが、心拍数を時間の単位として考えるなら、ゾウもネズミもまったく同じ長さだけ生きて死ぬことになるわけですね。
──一生を生きたという感覚は、ゾウもネズミも同じ、ということですね。
ところで、15億回という心拍数からいうと、人間の寿命はどれくらいになるんでしょうか。
本川 26.3年です。
──現代は「人生80年」なんて言われていますが、えらい違いですね。
本川 しかも、戦前までは「人生50年」と言われていたわけで、戦後のこの50年間で急速に伸びたとも言えます。
でも、現代人の寿命と動物の寿命とを同列に論じるのは無理があります。こんな話があるんですよ。動物園のゾウは50歳を過ぎると歯が磨り減ってきてうまく食べられなくなり、食が細ると身体も弱ってきて、そう長くは生きられなくなるんだそうです。「ゾウに入れ歯をすれば、もっと長生きするよ」と動物園の方が言っていました。
──確かに歯は大事です。身にしみてよく分かります(笑)。
本川 そうですよ。もし、煮炊きする技術もなく、入れ歯もなかったら、人間だって50歳を過ぎたら食べられるものがなくなってしまいます。
もちろん、入れ歯だけで80年というわけではないですよね。安定した食料供給、安全な都市や医療の発達等が飛躍的に人間を長寿化させた要因です。
実は、縄文人の寿命は31年だったという推測値があります。本来の人間の寿命はそのくらいなのかもしれません。15−16歳で子供をつくって、ある程度子育てして次の世代にバトンタッチしていくという循環だったんでしょう。
───「ゾウの時間・ネズミの時間」東京工業大学理学部生物学教室教授 本川 達雄 氏
(アットホーム こだわりアカデミー 教授対談シリーズ 1995年8月号掲載)
https://www.athome-academy.jp/archive/biology/0000000104_all.html
おれは今まで生きてきて自分の家に宗教勧誘の人が来たことって無いんやけど、そういうシチュエーションでさ、訪問された側がよく「間に合ってます!」みたいなこと言ってお断りするやん?
このフレーズって、ことに宗教がらみのものごとに対するおれのスタンスを絶妙に言い当ててる気がするんよな。
おれは無神論者でもない代わりに宗教自体にはアレルギー的な忌避感もないし、それでいて神様や天国まわりの事柄について単純にすべてを不可知論で片付けとるわけでもない。
強いておれの立場を表すなら、「自由気ままに考えることをやめたくない教」の信者やねん。
特定の宗派に属するってことはきっと、何か得体の知れない事象を考えるときに、自分の信じとる「誰かが決めた既成の概念」を手がかりにして捉えるってことなんやと思う。それは、理屈じゃ説明が付かん出来事や災いを乗り越えるときにすっごいパワーを与えてくれるって側面もあるから、おれは否定せん。むしろ人びとのそんな営みにめっちゃ心動かされるときだってある。例えば、常軌を逸したスケールの宗教画とか建築物とか、ゴスペルが生み出す人びとの熱気とか。
けど、おれはいろんなことをあくまで自分の思うがままに想像したり創作したりするのがめっぽう好きなんよ。なので、人知の及ばない領域のことについても特定のバックグラウンドに頼らず、自分個人の今まで見聞きしてきたいろんなことをボーダーレスにエッセンスにしながら、縛りなくカジュアルにぼんやり考えて暮らしていきたいんよな。そういう立場から思ったら、ひとつの宗教観に肩入れし過ぎると他の宗教がこさえた文化の良さに気づきにくくなってしまっちゃったりして、もったいない気がする。ありとあらゆる宗教と、自分の好きなときに好きな距離感で触れ合いたいし、時には離れていたいねん。そんなおれをレリジャスプレイボーイと呼んでくれ。
というわけで、おれはそのへんの勧誘には、ガチで「間に合ってます」なのだ。
例えばさ、死生観的なことについても、おれはほんまに適当に、カジュアルに、暇つぶし程度に妄想するのが好きやったりするんよ。生まれ変わりとか転生とかに関する世間的な迷信やちょっとした慣用表現とかに対して、つじつまを合わせるようなルールや仮説を頭の中で作ってみたり。
今からちょっとだけ書いてみるけど、あくまでただただ面白半分に考えとることやからね。目くじら立てず、ちょっとしたSF(しょーもないフィクション)やと笑って受け流してもらいたい。
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まずいきなりなんやけど、この世での一生とあの世での一生が、野球の表と裏みたいな関係になっとる、ってのがおれの死生観の基本理念やねん。あの世は命が尽きた魂が一方向的に行き着く場所なんじゃなくて、この世での一生があるのとまったく同じように、あっちでもヒトや動物たちの一生っていうのがあったらおもろいなぁ、と考えとる。
つまり、この現世での寿命を全うしたら、次のライフは宗教的考え方によくある魂の浄化的なプロセスを経たうえでまたこの世側で始まるのを待つんじゃなくて、野球の試合の表裏みたいに、いったんあの世側をステージにして別の一生をこの世と似た条件で過ごすことになる。そんでもって一回の裏にあたるあの世での一生が済んだら、今度は二回の表として、この世での一生がまた始まる、みたいな。
ほんで基本的には、一生が終わってチェンジになるごとに、その記憶はほとんどリセットされるもんとする。けどイレギュラーに残ってるものはあるかもしれん。それが世に言う「前世の記憶」、みたいなもんじゃないかと。
また、この世の命で担当しとる動物とあの世の命での担当動物は、同じとは限らないと俺は踏んどる。何を言い出すねんって感じやけど、例えばおれらのケースで言うと、この世ではみんな一応ヒトをやらせてもらっとるやん?それがチェンジになって、裏にあたるあの世でのステージに入ったとき、おれらの魂があっちの世界でもみんながみんなヒトとして生きとるかは、定かでは無いって思っとんねん。ある人はあっちではウサギとして暮らしてるかもしれんし、ある人はカメかもしれん。その人その人、それぞれの魂で違うねん。
ただし、表裏の担当動物の種類自体は、それぞれその範囲内に限定されてるんやと思う。表ではヒト、裏ではウサギを担当してる魂であれば、今のこの世の一生が男の日本人、次のあの世での一生でウサギ(例えばメスの野うさぎとか)、またこの世に戻って女のロシア人、あの世でオスのネザーランドドワーフ、またこの世で屈強なサモア人、…みたいな感じで。
しょーもない日常会話でよくある「私、前世絶対ネコだわ〜」的なの、あるやん?実はああいうのって当たらずとも遠からずでさ、「前世」と言うより「あの世の担当動物」での消しきれんかった記憶を指しとるのかもしれんよ。メモリーとしてはリセットされてるはずやけど、裏の命でネコとして生活してる反復のリズムがどうしても魂に記録されてて、他人よりもネコの気持ちが分かるとか、ネコっぽい性格が抜けてないとか、そういう傾向が現れることがあるのかもしれん。
ひと昔前のTV番組で「人の言葉の分かる犬」やら「馬と心が通じ合う人」やらを取材した感動系の動物ドキュメントみたいなのをよく目にした。ああいうしょーもないのを見たときに、こういうしょーもない妄想が捗るねん。それってあの世パートでヒトを生きてる犬なのかもしれんな、とか、あの世パートで馬をやっとるヒトなんかな、とか。
さて、おれの気さくな死生観は昔からの暇つぶし妄想の積み重ねやから、もっともっとコマいとこのルールも詰めてあんねん。例えば、あの世での一生は、この世での時間の流れと逆方向に進んで経過する、っていう説。
この世とあの世は見かけは鏡のように瓜二つ、どちらも良く似た世界ではあるものの、三途の川っぽいものを挟んで、時の流れがそっくり真逆になっとる、っておれは考えた。つまり、あっちの世界で生きれば生きるほど、この世でいうところの過去の方向に時点が進んで行くんよ。これは多分もともと、おれの大好きなルイス・キャロルの「鏡の国のアリス」の舞台設定からインスパイアされて思いついたルールで、ちょっとこのカジュアル死生観の仕組みを面白くしとるポイントやねん。
さっきたまたま出した例を使うと、この世で男の日本人が1970年に亡くなったら、次にあの世のメスうさぎの一生は同じ(この世で数えるところの)1970年にスタートして、その生涯が5年で終わったとすれば、この世でのロシア人女性としての生を受けるのは前回のこの世での死亡年から5年さかのぼった、1965年になんねん!そんでそのロシアンライフが2025年に幕を閉じたらその同年にあの世でのオスのネザーランドドワーフ回に進み、ウサギとして12年の天寿を全うしたなら、次の屈強なサモア人に生まれるのは2013年のこと…って感じ。面白いでしょ?数直線で図示とかしたらもっと伝わるんかなぁ、これ。
この死生観の肝としては、この世での担当動物の寿命があの世での動物の寿命より大幅に長い場合、この世パートでの生まれる時点が(この世基準で考えて)未来の時制にどんどんズレていくんよな。それに対してこの世とあの世の寿命の長さの関係が逆の場合は、この世パートのスタート地点は過去の時代へさかのぼってくってこと。やから、世の中でも若いのにやたら時代遅れのものが好きな人とか、めちゃジジイやのに最新の機器にバンバンついていける人っておるけど、それもこんなふうなシステムのなせるワザなんかもしれんな、って思う。アンティークものやヴィンテージものにふれて落ちつく若者は、もしかしたらこの世あの世の一生の繰り返しを経て過去から未来にこの世での人生の舞台を移してきたのかもしれない。ハイテク機器に一切気後れしない老人はその逆で、かつての人生でそれらを手にした経験が魂のどこかに残り香として居座っとるがためにトレンドから振り落とされないのかも。な、つじつま合うようにできとるやろ?
ただし、それだけの決めごとやと、さっきの例を続けるならサモア人の回以降もどんどん一生のスタート地点はこの世のヒトサイド視点では未来に、あの世のウサギサイド視点では原始にズレていくわけで、いつかはどんな種類のヒト(またはウサギ)も生まれ得ない時代まで到達しちゃうやんか。そんな場合はどうする?
もしそうなったら、どこからともなく辞令が出されて、「今回からキミはこの世:ムカデ、あの世:ウサギの担当とする!」みたいな配置替えが起こったらおもろない?つまり、この世/あの世の担当動物は、その動物が生まれ得ない時代までスタート地点がズレきったときに別の担当動物に異動される。そうやって、表と裏のサイクルがくるくると機能するように調節されとるんちゃうか、みたいな。
ある宗教観では、そんな異動辞令を出す存在に似たものを閻魔大王とかって呼ぶんでしょ?あながちおれの自由な想像もよその宗教とかけ離れ過ぎとるわけじゃないのだ。
とまぁ、ハチャメチャな死生観を示してきたけども、おれがこんなアホなことを考えるのも実は単なる暇つぶしではなくて、人間ってのは多かれ少なかれ理不尽なことや不平等に思える扱いとかに、ちょっとした解説が欲しくなるからなんやと思うよ。
ネットでもリアルでも会話の中でたまに、「あの人って絶対、すでに人生何周もしちゃっとるでしょ!」みたいな羨望丸出しのコメント、見聞きするやん。めちゃくちゃ野球が上手いスーパースターが現れたり、まだ学生服着た子が将棋や囲碁の名人をバッタバッタと倒しまくったり。おれはそんなもん結局は全部、本人の才能と努力とそれが好きな気持ちの賜物でしかないと思っとるつもりやけど、実はそれを納得させるためにこんな死生観をでっち上げとるのかもしれん。
つまり、おれの考える死生観の枠組みで捉えれば、そういう稀代の天才たちが生まれるのやって、まず第一に「この世でもあの世でもヒトとしての一生を送っていること」、第二に「今までの表裏の生涯でもその得意分野に何度か携わっていたこと」、このへんの条件を満たした魂があるなら理に適わないこともないんよな。
だって、表でも裏でも同じ動物として生きれるのならば、(いくら記憶はその都度リセットされるにしても)その人生経験の蓄積の差っていうのは他とは歴然の差、文字通り倍になるわけ。しかもそれでいて、この世とあの世の一生間で寿命のギャップも大きく生まれないわけやから、時制の流れの逆流によって人生を繰り返すスタート地点が大きくズレまくることも無いわけよ。なので例えば野球が盛んな時代に生きれるタイミングにひとたび突入したら、しばらくはその何百年間かくらいをじっくり繰り返しヒトとして生きれちゃうわけ。ね、そう考えたら「人間何回め?」みたいなこともあり得なくはないでしょ。
世の中にあるスピリチュアルなもの、宗教的なものっていうのは、この辺りの不平等感のモヤモヤに落とし所をつけるために役立つこともあるんやろうな、って思う。けどおれはそういうの、こうやって自分で考えて面白がるのが好きやったりするねん、あくまで気さくに、カジュアルに、自分の頭の中だけに。
やから、今んとこは、やっぱ宗教は「間に合ってます」ねん。気楽に暮らせとるよ。
さて、こんな気さくな死生観、あなたの暮らしにもどないです?…え、「間に合ってます」って?



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