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半人前の芸術家は今日も呑気に片目をつぶる

  • 執筆者の写真: bunkeiedison
    bunkeiedison
  • 2022年10月23日
  • 読了時間: 6分

更新日:2022年11月29日


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ただ自然はこういう僕にはいつもよりも一層美しい。君は自然の美しいのを愛し、しかも自殺しようとする僕の矛盾を笑うであらう。けれども自然の美しいのは僕の末期(まつご)の目に映るからである。

──芥川龍之介「或旧友へ送る手記」


 朝の通勤電車に乗れなくなった頃から、もう3年以上過ぎた。

 あれから日常的に電車を使うことは無くなって、人と酒を飲みに行ったり旅をしたりするような楽しみのためだけに鉄道を使うようにしたことで、途中下車して便所でゲロ吐くようなこともせず当時よりずっと気楽に乗れるようになった。けど、今になってもおれは乗車時に、あるアイテムを身につけることが多い。

 それは、やっすいボロボロの伊達めがね。レンズにはヒビが入ってて、指紋の汚れもあえて目立つようなもの。満員の電車に独りで乗ってても、これを掛けてると楽なんよ。ひとえに視界が狭くなって落ち着く気がする。今みたいにマスクもしとったらさ、レンズが曇ってくれていっそう助かる。まあもはや、おまじないレベルのルーティンになったけど。


 でもこんな誤魔化しかたは、せいぜい苦手な満員電車や人混みの中だけにしとこうな、と自分に対しては思ってる。だって本当は、好き嫌いあろうといつどんなものを見てもその内に綺麗さとか面白さを見出だせるような、そんな目が欲しいじゃんか。


 芥川が書いたように、「もう死ぬしどうでもええわ!」モードの人間の目に映る世界が美しく映るのは、きっと鑑賞する対象のいちいちに対して、俗っぽい些末な概念が付箋みたいにくっつくことが無いからやと思う。ものを綺麗と感じるまでの思考回路上に、個人的な好き嫌いみたいな遠回りも障害物も無くなるんやろうな。

 そういう意味で、この「末期の眼」に映る世界を作品上にそっくり再現することこそが芸術家の極意や、と唱えた人もいる。その人も芥川同様、最後は自殺して死んだ。

 

 何だかんだ苦労してもう記憶も薄いけど、電車に乗れんくなった当時のおれを振り返ると、わざと汚した眼鏡やろうと吐き気のせいで目に溜まった涙やろうと、とにかく嫌悪感のある視界をあくまで塞ぐほうに意識が向いてたあたり、まだ完全には「どうでもええわ」の「末期」方向に舵を切ってなかったんやな、て思うよ。これが逆にギンギンに目ぇ開いて車内の人々の顔にも真理みたいなのを見出してたら、どうなってたんやろ。おっかないな。


 電車の例を除くなら原則的におれは、どんなしょーもない物ごとにも面白さが見出だせる目を欲しいと思っとる。そういうモンでも無いと、自分の思い通りになかなか渡らしてくれないこの世の中、つまらんじゃないか。


 しかし再三になるけど、そういう「末期の眼」が出来上がってしまう頃には下手をすると、おれはもはやこの世自体に用が無くなりかねんのよ。

 

 じゃあどうすりゃええんや。





人間や他の多くの動物は、私たちに奥行きを知覚させるために、2つの目を持っています。

──Alexaに「目はなぜ2つあるの?」と尋ねたときの答え

 

 おれは日々の生活を、わりと思いっきり二分して暮らしてるような気がする。

 好きなものはいっぱいあるけど、それらのうち何ひとつ自分が食うための仕事には使ってこんかったために、昼間働いとるときに使う脳みそは(まぁほとんど使っとらんけど)、夜や休日に使う脳みそとはほとんど使用領域的に相容れない。自身の脳内だけの問題じゃなくて、関わる人々の種類や会話も、仕事と遊びでそれぞれ全く違う。仕事の種類にしてみても、机に向かって働いたことも、ヘルメット被って働いたこともある。学歴は文系やのに、ここんとこ怒涛の勢いで技術関係の資格を取ってたりもする。


 自分の意志で取った選択肢であろうと余儀なく取らされた選択肢であろうと、それらを重ねた30年の結果、おれは一人前の同世代の大人と比べて圧倒的にどっちつかずで半人前の、アイデンティティのパッとせんようなギリ大人になった。

 その顔には、半分は自分次第でどうにでもできる趣味の芸術の目、もう半分は何とか食うために身に着けてきた現実まみれの仕事の目を持って。または文系と理系の目、あるいは事務屋と技術屋の目を持って。さあこれは、果たして幸か不幸か。


 どうせなら幸と思おうよ。じゃなきゃやってられんやろ!

 左右それぞれの目で捉える像に違いがあるからこそ、両目で合わせたときに像に立体感が生まれるってもんやん。ひょっとしたら乱視がちになり得るほど性質の違うそれぞれの目を自分なりに使いこなせれば、視野はなんぼでも広がるし、ピントはどこにでも絞れるはず。

 何なら、好きなときにウインクだってしちゃうね。芸術を鑑賞するモードのときとかさ、用途に応じて見る目を分けたっていい。使わんときは片目を休ませとけばええんや。


 これがさ、一人前に出来上がった大人の左右の目なら、もしかしたらあんまり片目つぶっても映る世界は両目とそない変わらんかもしれんよ?もっと言えば常に両目でしっかり見ることに慣れきって、ウインクもできなくなった大人もいるかもしれんで。

 でも、そのことが悪いとは良う言わんよ、半人前の分際で。なぜならビジネスの面でもアートの面でも、ほんまに大成するプロの人間っていうのはきっと、その対象に向けて両の眼で100パーセントの視力を注げるような、思いっきりの一人前やと思うねん。

 どっちつかずの生半可な奴が、片目つぶりながら2階からの目薬を永久に待っとるようなスタンスでは、万人が認めるほどの成功は降ってこないことは、さすがにおれももう知っとる。

 

 それでも、おれが今後も個性を持ったそれぞれの目を適材適所で使いつつ半人前なりに暮らしていきたいと思っとるのは、どっちか片方が冒頭の「末期の眼」状態に入って自分の世界が完全に「もうどうでもええわ」モードに没入しかけたとき、もう片方の目に冷静に俗世間を捉えた像が映っていれば、極端な方向に走りかけた視野に「奥行き」を持たせることができるからや。


 この、映す像の異なる両目で作る視界の為せる「奥行き」こそが、おれの思う本当の意味での「末期の眼」の在りかたやと思う。どうでも良くなってやっと見える景色が美しくなったなんて、しかもそんな風前の灯火みたいな境地が一人前の芸術家にとっての究極のゴールやなんて、おれには無理とか言う前にそもそも嫌や。

 どうせならそんな絶景を見たときに、その境地にやっとこさありついてへらへら笑っとる自分も含めて、俯瞰で捉えられたら。その余裕や奥行きが許されへんなら、プロなんぞこっちから願い下げやね。

 自分の存在が介入した時点で純粋な美が損なわれたとしても、おれは別に構わん。それが許容されるのが、半人前の素人レベルの特権やと思う。


 なのでおれは今日も呑気に片目をつぶって絵を描いて、両目を開けてこの文を書いて、また明日からは片目をつぶって働いたりするよ。

 しょーもなさっていう、うっすい目薬を適宜両目に注しながら。


 こういう無茶苦茶な自己肯定も、あの頃みたいなんに戻りたない怖さから来るんやろうな。たまには両目ともつぶる日も要りそうやね。





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