ジョージア、アラバマ、テネシー漫遊記⑪ 「9月21日(木)」
- bunkeiedison
- 2024年8月23日
- 読了時間: 7分

7時頃に目が覚めて、昨晩下ごしらえを済ませとった荷造りの仕上げに入る。お、スーツケース意外とスペースは余裕ありそうやんけ。重さはずいぶん感じるけども。ま、超過しとったらそれはそれでしゃーないか。無くならなければいいんだよ。たのむよマジで。
リュックにいろいろ詰めとる間も、朝から会議をしとる友達の声が聞こえる。本社側とのやり取りかな、どうやら日本語や。高校の同級生も仕事中はみんな、こうやって真面目に喋っとるんやろなぁ。もうあと10日もすればおれも社会に戻って働いていくんやけど、実感が湧かない。
9時頃、友人にお世話のお礼とお別れを伝えておうちを出発。赤いヒュンダイに乗っての移動も今日が最後。
さて、帰国にいたるまでのスケジュールは次のような感じ。今夜23時発の飛行機でまずアトランタからデトロイトに飛び、深夜から明朝まで空港に滞在する。そんで22日の朝10時にデトロイトから羽田へ14時間飛んで日本に帰ると、到着した頃には時差も手伝って、23日の13時になっとる。東京では大学の後輩の家に一泊世話になるんで、自宅に帰るのは24日の日曜日かな。まだまだ遠い未来の話やなぁ。
とりあえずは今日残された時間をどう過ごすかやね。アトランタ空港で借りたレンタカーは大事をとって返却時刻を離陸よりだいぶ前に見積もった19時半に設定しとるから、動けるのはちょうど10時間くらい。
とは言えおれはもうすでに、ゆうべ寝るときには今日絶対に行っときたい場所を1か所だけに絞っとったのだ。ヒュンダイでジョージア州を東に200km弱走ってトムソンという小さな町へ。ここに、ブラインド・ウィリー・マクテルというブルースマンの眠るお墓がある。
ブラインド・ウィリー・マクテルは19世紀の終わりに生まれて1960年代を待たずに死んだ、ジョージアのブルースマン。名前の通り目が見えんかったらしいけど残された録音で聴ける12弦ギターはどれもこれもものすごくって、ラグタイムの指弾きでもスライドギターでも何でもござれの達人やった。
そう、「何でもござれ」のブルースマンと言えばこのブラインド・ウィリー・マクテルほどそれにピッタリの人はいないと思うんよ。ブルースと一口に言っても、彼の生きた時代にはアメリカの土地土地でそれぞれ特色を持ったブルースが育っとった。彼の生まれたジョージア州ならピードモントって呼ばれる丘陵地帯で栄えたラグタイムやカントリー調のピードモント・ブルースが有名やし、ミシシッピ川の流域やったらスライドギターに荒々しいボーカルを叩きつけたみたいなデルタ・ブルースやし。そんなバックグラウンドなんぞどこ吹く風、さっきも書いたとおりウィリー・マクテルは指でもスライドでもギターを弾いたから、自分がやるブルースに垣根を作らんかった。しかも残した録音はブルースだけに限らず、ゴスペルとか他の黒人音楽も、はたまたジミー・ロジャーズみたいなカントリー系、ヒルビリー系の白人音楽みたいに聴こえる楽曲も少なくなかった。歌声がきれいなんよな、いかにもザ・ブルースマンみたいな濁りが無いと言うか。そういう声と盲目も手伝ってか、ブラインド・ウィリー・マクテルは自分が生きた時代に耳から入ってきた音楽にジャンルや人種の垣根無く影響されて、影響されるがままに垣根無く自分の作品に落とし込んだブルースマンやった、そんな印象がある。
さっき「60年代より前に死んじゃった」と書いたけど、60年代を生きたかどうかは実は戦前から活躍したブルースマンにとってはすごい大きな違いがあってさ。長生きしたブルースマンはフォーク全盛期を迎えた白人の若者からその音楽を再発見されるっていうステージを得た人が多いんよ。アメリカの民俗音楽に興味を持ったフォークファンが昔のブルースの音源を聴き漁って、戦前にそれらを吹き込んだブルースマン本人の消息をたどって再び表舞台に迎え入れるのがそのいわゆる「再発見」ってやつで、おれの尊敬するミシシッピ・ジョン・ハートなんかはそれを体験したタイプのブルースマンやね。最晩年にクリアな音源や動く映像を残せたし、生きとるあいだに直に評価を得られた側の人やったんよ。
けどウィリー・マクテルは残念ながらそれが出来なかった。レパートリーの引き出しの多さからすれば、生でフォークファンの目の前に現れとったら度肝抜かれたやろうけどなぁ。その代わりにこのブルースマンの存在を世に知らしめたのは、アメリカ音楽のルーツを大事にする後進のプロミュージシャンたちやった。オールマン・ブラザーズ・バンドはマクテルの「ステイツボロ・ブルース」を大傑作ライブ盤の一曲目に激アツのアレンジで演奏しとるし、ボブ・ディランなんて「ブラインド・ウィリー・マクテル」ってタイトルの曲まで作るほど入れ込んどるからね。しかもディランは「誰もブラインド・ウィリー・マクテルのようにはブルースを歌えない」って歌詞に書いとるんやで!そういうおれのあこがれの人やバンドが演奏した曲から逆引き的に、彼ら自身があこがれたブルースマンに興味を持つのはもはや必然で、それはおれに限らず数知れんロック好きが通った道やと思う。あこがれはあこがれを呼ぶ、って感じ。
Googleマップに載ってたお墓の位置を頼りにトムソンへ向かう、途中でこの旅最後になりそうな給油も挟みながら。レンタカー借りるとき、返却時にガソリン満タンにせんで良いオプションを付けたもんね。
目的地に近づくにつれみるみる人気が無くなっていき、綿花畑も広がってくる。そうそう、トムソンはマクテルのお墓のある場所なのはもちろん、出身地でもある。
到着すると、本当に小さな小さな墓地の中、ぽつんとあたかも当たり前のようにブラインド・ウィリー・マクテルのお墓は立っていた。あれだけおれが長々と雄弁に思いを馳せれるブルースマンのお墓が、この何でもない風景に何の不自然も無く溶け込んで置いてあることは、この人もほんまにただのひとりの人として実在したんやな、と思わせてくれた。エルヴィスの豪華なお墓とかとはまた違う感動がある。
カントリーのあこがれにもブルースのあこがれにも触れてきたこの旅の最後の最後に、あこがれのさらにあこがれの存在を、そしてしかもカントリーもブルースも垣根なく残した人の存在を感じられたのは、すごくグッと来た。
時刻がちょうど正午になった。誰もおらん墓地、雲は多いけど快適な空。思えばこの旅、ずっと天候には困らんかったな。
西にとんぼ返りしてアトランタへ走り、15時前には中心地に着いた。3時間ほどジョージア水族館を見物して旅をフィニッシュすることに。週末に友達にアトランタ連れてってもらったときに話も聞いとったからね。
世界最大級の水族館を楽しむには時間が少ないかもしれんが、ラストに海の生き物を眺めてリラックスでもせんと、あこがれの音楽に漬かり込んだみたいな旅行から帰国へのグラデーションが折り合いつかんからね。がんばって歩いて全部のコーナー回るには回れたんやったっけね。くらげがキレイやったな、癒やされた。
水族館からは30分もかからず空港のレンタカー棟へ帰って来れた。10日そこいらぶりの帰還やけど、運転ももう慣れたもんよな。ここに来たときはテンパっててレンタカーのカギすら見つけんのにアタフタしとったぞ。
ほんでこっちのレンタカー屋さんは、(空港のレンタカーだけかもしれんけど)返却するときはただただ誘導されるがままに来るまで乗り付けたら、荷物降ろしてハイ終わりって感じ。特に車両のチェックとか受付カウンターに顔を出したりもせんで良かった。まだちょうど19時くらい。これじゃ離陸まで時間が余裕も余裕じゃんか。つくづく行きとは大違いやんけ。
レンタカー棟からターミナルのある棟にスカイトレインで移動。荷物をまとめ直して、早いけどもうチェックインを済ませる。スーツケースのタグが機械から出てきた。往路のトラウマが蘇ってくる。今回は…よし、おれの名前が書いてある!ざまあ見ろ。
そっからは手荷物検査を済ませてフードコート的なところで晩飯を食って、落ち着ける場所に座ってこれまでの旅行の覚え書きをこしらえたり日本と連絡を取ったりして過ごして、予定通りデトロイトに出発できたんやったかな。
(注:この辺から帰国するまでずっと、大したメモが残ってないのであやふやかもしれない)
デトロイト行きは小さめの飛行機で2時間ほどの移動、深夜1時に無事着陸。預けたスーツケースもいったん手元に帰ってきて保安区域外へ出された。再度チェックインできるのは朝4時からっぽいので、受付のあるフロアのベンチで待機。またしても旅の写真を整理しながら、適当にいっとき目を閉じた。
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