「分からない怖さ」VS「分かりきった怖さ」、夏の脱衣所で決闘をおっ始める
- bunkeiedison
- 2022年8月20日
- 読了時間: 5分

私には音楽のことはさっぱり分からない。
ただ、観客の少女の目を見れば何もかも分かった。
彼女は今、目の前で起きていることに熱狂していいものか戸惑っている。
奴のステージはそう、まさに禁断の果実そのものだった…
少女たちがその歌い踊る実にむしゃぶりつくのは時間の問題だった。
…これだ。この戸惑いこそが、私の人生で最高のアトラクションを生むのだ。
この若造は私の運命だ。
__映画「エルヴィス」(2022)より
平日はほとんどの場合、仕事から帰ってきてすぐに風呂に入る。この暑さの中を自転車で通勤してると、急斜面の坂を汗ダラダラで登りきった状態で家に着くことになるからね。そんな汗の滴るような身体で自宅をウロチョロできないよ。
bluetoothのスピーカーで音楽なり落語なりをかけながら、水なのかお湯なのか分からんような温度のシャワーを浴びて一息ついて、頭と身体洗ってそんで終わり。夏場は湯船に浸かるんは週末くらいやな、その分浸かるときはめちゃめちゃ長風呂するけども。
3日前くらいかな。そんな行水みたいなシャワーを済まして脱衣所(と言ってもうちは玄関から風呂場までツウツウなんやけど)で身体を拭いてたら、左太ももの付け根あたりに鮮血が数滴付いてることに気がついた。
ところで、おれはあんまり血を見るのが好きじゃない。作り物でも本物でも。映画好きなわりにホラーはあんまり観ないのもそのせいやし、病院で採血されるときも視線は診察室のカレンダーの犬かなんかの写真に向けるようにしてる。意外と繊細なとこあるのよ。
だもんで、不意にそんなもんを見つけたからやや動揺した。サッと目線を外しつつ、落ち着いたフリして周囲の状況を確認する。幸い、太ももに付いた血の他には床に散ったりしてなさそう。洗面台の鏡を見てみても鼻や口から垂れたりもしてない。あぁ良かった。
…と思ったのも束の間。出どころのつかめない血となると、それはそれでおっかないじゃんよ。全裸の30歳、鏡の前に自分の身体のありとあらゆる部位を写しにかかる。
背中でもない、脇でもない。肘でもなければケツ穴でもない。すんごいポーズやったよ、丸椅子まで使っちゃって。おかげで久々にまじまじと自分の尻見たわ。案外そっちは毛深いのね、じゃないんよ。
あ、ひょっとしてちんちんか?いや、こいつはついさっきシャワー浴びる直前も元気やったぞ?念のためあらゆる角度から確認したけど、案の定いたって健康。ここんとこしばらく温室育ちやもんな。やかましいわ。
結局、身体のどこを探しても出血の原因はつかめなかった。しかしどう見ても太ももに付いてたのは、血は血で間違いないんよなぁ。
こうなるともう、自分の肉体以外の場所も確認せざるを得なくなってくる。血を見つけたときに周りの床は即座に見回した。身体のあちこちを鏡でチェックしてるときに、辺りの壁も視界に入ったけど何も無かった。ということは下と前後左右は確認済みや。残るは上か…。
そうして、おれは脱衣所の天井を見上げた。
さて、この瞬間こそが今日のお話のポイントですわ。これがテレビ番組やったら、天井を見上げるおれの横顔で一時停止になって一旦スタジオにいるタレントの感想コメントを拾うとこやね。
話を本題に戻すと、分かりきったことやが、本来怖がりなおれにとって、ここで頭上の天井に血が滲み出てて、その溜まりから血がポタポタ垂れてた!なんて光景は、戦慄するほど恐ろしいことなわけよ。
しかし一方この日のおれの胸中には、太ももに付いた鮮血についての確固たる説明がそろそろ欲しいという思いも、少なからずあった。血が苦手なおれにとっては血の出どころがハッキリしないこと自体が、そこそこ怖いのだ。原因が分からない以上、このあと急に身体のどこかから血が流れてきたっておかしくないわけで。そもそもおれの身体からかどうかもまだ確証無いし。勘弁してくれよ、これからシャワー上がりのビール飲むってのにさ。
ここに、天井から血がポタポタの「分かりきった怖さ」と、どこから出るとも知れない流血という「分からない怖さ」という二項対立、葛藤が生まれた。一見絶対的な恐怖現象に思える天井からの血が、とにかくここに血があることへの明確な答えが欲しいという状況の下では相対化されて、「いっそ起こったほうが気がラクな現象」になり得るという…言わば答えを欲しがる合理性と、おっかないもんはおっかないんじゃ!っつう恐怖心の、鍔競り合いのような心理状態とも言うべきか。
ま〜たしょうもないことを考えとる、と思われるかもしれないし、日頃からいちいちそんなこと思いついて何が楽しいの、とも言われるかもしれんけど、「絶対的な本質を持つように見える物事も、状況によっては相対化されて全く別の性質をあてがわれ得る」ということ(=今日のお話の教訓)は、頭の片隅に、さながら真夏の脱衣所の隅のゴキブリホイホイのように、置いておくと良いかもしれないよ。
差別は良くない、戦争は悪だと思ってたとしても、大災害だの原因の究明できない大事件が起きたりすると、それらをきっかけにモノの見方はコロコロ変わってきた、と歴史は物語ってるらしいじゃないか。やれ、どこの国の奴が井戸に毒を入れたとか、そこにそいつが隠れてるかどうかは分からんけどいるかいないかハッキリするなら国ごと焼いちゃうか、とか。
どこの何かも分からん血を今後も見るかもしれない怖さが、いっそ血だらけの天井でもそこにあってほしいと臆病者に思わせ得るのと同じように、明確な答えを知って安心したい、ていうマインドは、たまにそれまでの倫理観や価値観を超越するときがある。そういうことが起き得るという自覚が前もって脳裏にあると、いつかまたゴキブリみたいな思想が蔓延ったときに惑わされないで済むかもよ。俯瞰で見れる、と言うか。
ちなみに、すっぽんぽんのアホがそうやって何やかんや葛藤しながら見上げた天井には、一滴の血もありませんでした。やっぱり。
ひとまずこれ以上の血はどこにも見当たらないことを確認したあと、短パンとTシャツを着たおれは、とりあえず酒をたらふく飲んで、さっき見たものぜんぶ忘れることに決めた。
へらへら暮らすことは、どんな怖さよりも強い。
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