LYRICAL BANANA vol.3 「虫」


お題の言葉から連想された歌の歌詞を思いついたままに挙げて、その言葉の働きをちょっとだけ考える不人気コーナー。 今回は、
虫といえば?
前回の雨に続いてまた季節モンや。
虫が出てくる歌詞にはどんなものがあって、どんな使われ方をしているのだろう?
夏休みの自由研究がまだ決まってない小さいお友達はぜひ参考にしてね。
お母さまもお子さまに是非勧めてあげてください。
…ガキや子持ちがこのページの存在を知るまであと何年かかるやろ。
このホームページ、金出さんと管理してるから仕様的に公の検索エンジンじゃひっかからんねん。
昔ながらのカルト宗教みたいな、地道な布教活動や。
読んで感心したらURLリツイートとかしてもええねんで?
その価値があるもんをおれが書かなあかんねんけど、何がウケるかいまいち分からんなぁ。
セルフプロデュース力皆無やからなぁ、おれ。
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①
なんだかよく わからないけれど 見た目がスゲエ
ヤバいぜ ヤバいぜ ヤバすぎる ヤバい 見た目がスゲエ
ヤゴ ヤゴ ヤゴ ヤゴ
大人じゃないのに 子供っぽくない 見た目がスゲエ
服着てないのに裸っぽくない 見た目がスゲエ
ツヨそう ワルそう コワそう 見た目がスゲエ
虫の見た目だけを歌詞にした曲。
単純なようでいて、これが意外と難しい。
虫じゃなくても何でも、歌詞に使うモノってそうやん。
その単語をチョイスすることによってどういう印象を与えるとか、考えそうなものや。
そもそもこのコーナーだって、そういうのを考えるために書いてるんやし。
ところが、すごいよなぁ、この曲。
どこまでもヤゴの見た目がスゲエだけや。うっとりするわ。
これが目に見える絵画の世界やったらもっとこの異質さが分かりやすかったやろうな。
スーパーでやってるような何の変哲も無い子供のお絵かきコンテストとかで、他の絵に混じって、未だかつて無い手法で描かれた絵が1枚飾られてるようなもんや。
たしかにヤゴってかっこいいフォルムしてるよな。アゴとか。
なんか、それを歌詞にできるの、少年性って感じやなぁ。好奇心というか。
こういうものをロックの歌詞にできるバンドマンはなかなかおらん。
というか、これ書いた人だけ、ズバ抜けて虫が出てくる曲の数が多いねん。次の歌詞もその人のやし。
おれが大好きやからその人ばっかり思いついたんかもしれんけど。
②
大人になったら
セミは飛ぶんだぜ
子供のままでいるんなら
死ぬまで暗い土の中
自分が自分の世界の主人公になりたかった
子供の頃から憧れてたものに
なれなかったんなら 大人のフリすんな
こういう使い方が、歌詞に虫を入れる効果として分かりやすいと思うな。
つまり、虫の持つ特殊な生態を、あえて人の暮らしに関わることの例え話に使うパターン。
こういう場合は、犬なり猫なりある程度人間の生活に近い動物を使うよりも、根っから造りの違う虫のほうがインパクトを期待できるかもしれない。
歌詞で人の生き方を扱うってなったときに、人以外のモノの視点を表現の選択肢から外さないようにするのって、ちょっと難しいよな。
テスト中に、テスト範囲じゃないところの定理を使おうとは思いづらいもんやん。
もっと言うと、物理解いてるときに日本史のことはまず考えないし。
そこらへんが作詞とお勉強の違いなんでしょう。芸術や、芸術。
…こうやって歌詞のつくり考えるんも程々にせな、お勉強になっちゃうかな。
③
ガウンを脱ぎ捨てて卒業証書を拾いあげたぼくは
恋人の手を握りドライブに出た
まっすぐに丘へ、あのダコタの黒い丘へ
あんな場所を生きて抜け出せたことが何より嬉しかったんだ
そしてセミが歌った、鳥肌が立つようだ
セミが歌った、なんて優しいメロディーを
セミが歌った、高いすすり泣くようなトリルで
セミが歌った、ぼくのために
そう、ぼくのために
この歌詞がちょっと、いろいろメモっときたいこと多いんよな。
なんなら、補足したり訂正したり解説したりできるような、外国語や文学の学生諸君に意見を拝聴したいところでもある。
まずはこの歌詞、アメリカの曲のなんやけど、虫の鳴き声に叙情性を見出してるのがかなり特殊に見える。
セミの声に季節の趣を感じたりすんのは日本人だけの特技やと思いがちやろ?
ただ、実際の話、多くのアメリカ人にとってセミの声は生活の中で特にハッキリ意識はしないものらしいから、もしかしたらこの歌詞の作者の感性が突出してるだけなのかもしれない。
まぁノーベル文学賞取るくらいやしな、この人。
とにかく、洋楽でもセミの声をこうして取りあげてる曲があることに新鮮味を感じたんで、おれのなかでは印象に残ってる曲や。
使い方も、「卒業」と「セミ」なんて、日本の歌詞では結びつかないペアで面白いよな。
アメリカの大学の卒業式って初夏らへんらしいもんな。
逆に考えたら、アメリカの音楽リスナーからしたら日本の曲の歌詞って新鮮な使い方が多いんやろうなぁ、と気づく。
日本で一大ジャンルくらいニーズのある卒業ソングとペアになるのは、たいてい桜や。
向こうとは卒業の時期も違えば、桜自体もあっちではメジャーじゃないかもしれない。
それと同様に、虫の声を愛でるなんて、こっちでは童謡レベルから馴染んでるところやけど、あっちでは雑音扱いかもしれない。
よくさぁ、ニッポンの曲は素晴らしいから英語さえできればワールドチャートを席巻するポテンシャルがある、みたいな雰囲気の意見あるけど、言葉の問題だけじゃあ絶対ないと思うんよな。
もっとも、こういうバックグラウンドレベルの違いもクリアしたうえで日本の曲が海外でも聴かれるようになるんなら、より一層インバウンド効果が出ると思うわ。
ジャパニーズの曲の歌詞に出てくるサクラを体験したいとか、夏祭りも花火大会もどんなものか見たいとか。
そういうものを期待した観光客が日本に来てくれたときに、肝心の現地でその音楽が規制のせいで街中にまったく流れてなかったら落ち込むやろうなぁ。
そのへんも分かってやってんのか、権利保護団体なりそこに加入する音楽家のみなさんは?
そいで、もう1点この歌詞について印象深いのは、もっと根本の、単語の話。
便宜上、もう曲名バラシちゃうんやけど、この曲の原題、Day of the Locustsって言うんよ。
ほんとは、あんまり歌詞に先入観持って欲しくないから曲の情報は伏せるようにしたいんやけど、この曲はシャーナイ。
で、日本語盤での邦題はせみの鳴く日。
おれが興味を持ってるのは、この"locust"っていう単語の扱い。
この曲が入ったアルバムをおれが買ってからもう10年弱くらい経つと思うんやけど、買った当時は英語の好きな高校生なりに気になって、それから未だに興味深いなあって思ってる。進歩のない奴やで。
簡潔に問題を言うと、locustって単語は「イナゴ」と「セミ」、どっちの意味も英和辞典に載ってるんよ。
で、オックスフォードの英英辞典なんかでは、ほとんどイナゴの意味で載ってて、「アメリカではcicada (この単語で表すのは100パー「セミ」っぽい)のことも指します」ってさらっと書いてあんの。イギリス英語ではイナゴが優勢なんやろうね。
かといって、アメリカではlocustが必ずセミか、つったらそうでもないんだなこれが。
例えばこのページ。
まぁ面倒やったらリンク飛ばんでもええわ、概要を言うと、何かガーデニングに関するサイトの中の記事で、完全にlocustはイナゴ、cicadaはセミ、で説明されてんのよな。自信を持って。
しかも、書いた人のプロフィールを見るとミシガン州在住っぽい。高校のTAさんらしい。
たぶん、アメリカの中でもlocustがセミを指すかイナゴを指すかなんて、全国的な、決定的な決まりはないんちゃうかな。
じゃあなんでこの曲の題名を自信持って「せみ」の鳴く日、て国内盤作った人らは訳したんか?
あ、ちなみにもっと話をややこしくしてやると、原題のDay of the Locustsに酷似したThe Day of the Locustっていう小説が、この曲ができるもっと前に書かれてて、その日本語題はなんと「イナゴの日」なんよ。もう意味わからんでしょ。
『イナゴの日』(原題: The Day of the Locust)は、アメリカの作家ナサニエル・ウェストの1939年の小説および、これを原作とする1975年制作のアメリカ映画。ジョン・シュレシンジャー監督。
で、この小説については話の内容的にもタイトルのlocustは「イナゴ」で間違いないっぽいんよね。
恥ずかしながら実際に読んだことはないんやけど、ストーリーを調べたところでは、終盤に集まってくる大勢の人間を大群を成したlocustと重ね合わせる描写があるらしい。
そういうときに使うlocustはセミを指しそうにはないんよな。
何しろ向こうの文学のバックグラウンドにもなってる聖書にもイナゴの大群による災いの話が出てくるんやし。
それを指す英語もplague of locustsって言うらしいからな。
この曲の作者だって、この小説の存在を知ったうえでこの曲名にしてると思うんよな。
だって、ボブ・ディランやで?もう人名も言っちゃうけど。
ディランは公式ページで全曲の歌詞載せてくれてるところも好き。ちなみにコピペもできるんやで。
で、結局セミって訳を選んでるのは、その歌詞の内容によるところが大きいんやろうな。
locustが「歌う」ってこんなに強調してるし、卒業の時期やから初夏っぽいし。
イナゴが歌うって表現するのもできることはできるやろうけど、彼らが出す音は羽音の一種やからなぁ。
発音器官を持ったセミの方が「高らかに歌う」面では分があるでしょう。
そもそも思うのは、日本語にする場合に「セミ」か「イナゴ」か、で悩んでるけど、ふつうのアメリカ人の間ではあんまりどっちがどっちなんて問題意識は持ってないんちゃう?ってこと。
だって、高校で教えてるような人がわざわざ「セミとイナゴはこんなふうに違うんですよ!」ってガーデニングのサイトに投稿するんやで?
それ自体が日常でlocustが何の虫を指すかなんて意識してない証拠のひとつと言えんか。
でなきゃこの記事、「1たす1は2です」並みの低レベルやろ。
やから、ディラン自身がセミのつもりでlocustっていう単語を使ってて、イナゴではないんやで、みたいに特別意識してるって考察するよりかは、そもそも単に向こうの人らにとってそこらへんの虫を扱う単語に日本語ほどの分類は無いんや、ってあっさり受け取ればいいだけの話なのかもしれない。
逆に、こっちじゃとりあえず牛って言うときゃええものが、向こうじゃoxなりcowなりbullなりcalfなりがあるのと同じ話。なんかな?
とりあえずlocustって言うときゃわかるものを、こっちじゃセミ?イナゴ?どっちを当てよう?ってなる状態。
語彙の数が釣り合ってないというか。
日本人の苦悩がつまったページも載せとくわ。興味深いエピソードもいくつかあるよ。
おれこのページ、初めてこの曲を聴いたときも読んだかもしれんわ。
何か追加の情報とかあれば誰か教えてくれ。マジで。
④
彼女はナリが平凡な尻軽で、
だいたい30くらいに見えたかな
逃げればよかったんだけど、こっちも1人きりだったんだ
後から聞くには機械のオペレーターをやってるみたいで
俺のマイクの持ち方が気に入ったらしい 俺はもうクモがハエに言うみたいにこう言った、
さあ、さあ、さあ!俺の巣に飛び込んでこいよ!
4曲目はブルースナンバーから。
とは言ってもイギリスのバンドのやつやけどね。
ここではクモとハエっていう弱肉強食関係にある2種類の虫を出すことで、ライブ終わりの夜にバンドマンが女を引っかけようとしてる場面のイメージを助けてる。
人間同士の関係を別モンのペアで例える手法自体は、虫以外でも割とあるよね。
月と太陽、縦糸と横糸、砂鉄と磁石、釣り人と魚、etc。
クモとハエもこの一種と見て良いでしょう。
ただもう1個、このクモとハエの使い方がおれにとって印象的なのは、初めに言ったとおりこの曲がイギリスのバンドが作ったブルースナンバーや、ってことに関連する部分。
The Spider and the Flyって、イギリスの子ども向けの有名な詩があるんよ。たぶんマザー・グース的な立ち位置のやつ。
クモさんがあれやこれやの言葉で誘惑してハエさんを自分の巣へ呼び込むっていう、まさにそのまんまの内容。
かの有名な「不思議の国のアリス」の中でもこの詩のパロディとされる詩が出てきたりする。
おれの研究分野、不思議の国のアリスやねん。
イギリスの白人の若造どもがアメリカの黒人のブルースに憧れて、自分たちでも作詞しようってなったときに、自分たちのバックグラウンドにあるものを持ち出してきたの、ほんまに偉いと思うわ。
憧れを憧れのままマネするだけじゃなく、自分たちの引き出しからも歌詞の材料を探してくる姿勢が大変よろしい。
そんな彼らが作り出したロックが日本に入ってきた頃、今度はこの国で「日本語ロック論争」なるもんが起こったという。
日本語詞はロックに乗らないと主張する奴もいれば、日本語の語感で表現しないと日本らしいロックは生まれないと強調する奴もいたんやと思う。
おれの持論はやっぱり、日本語でも英語でもどっちでも良くて、肝心なのはオノレの引き出しから引っぱってきたモンを混ぜ込んでるかどうかってとこやと思うわ。
おれが「この歌詞おもろいな」って感じるやつって大抵どっかの部分でこの条件満たしてるんちゃうかな。
考えてみたら、おれが自分で歌詞書くときも、よく日本の昔話とか引っぱってくるわ。うさぎとかめとか、玉手箱とか。
無意識にそういう美学みたいなもんでも追求しとったんかな。
⑤
朝日が照ってた車道が帰りは日陰になってる
朝踏んじゃったカナブンが帰りはアリに食われてる
朝気になってた寝ぐせが帰りは汗で直ってる
朝すれ違った気になるあの子は部活をやってる
これもカナブンとアリっていう食物連鎖がある点では④に似てるけど、その関係にカナブンを踏んだ人間たる自分も入ってきてる。
「人+虫1+虫2」っていう3者の構図やね。珍しい。
比喩とかではなく、毎朝の日常の風景のなかでの虫たちやから、こういう、人間が介入してくる構図も可能なんやな。
今回はここまで。
皆さんのなかで虫の歌詞やったらこんな使い方もあるやろ!って思われた方がいたら教えてください。後学のために。
リリカルバナナ、虫といったら?



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