会報のトラ vol.6


JT、「わかば」「エコー」など3銘柄終了へ
日本たばこ産業(JT)は24日、「わかば」「エコー」「ゴールデンバット」の3銘柄を10月以降、在庫がなくなった段階で販売を終了すると発表した。「旧3級品」と呼ばれる銘柄の軽減税率が9月末に撤廃されることから、大幅な値上げが避けられず、販売の継続は難しいと判断した。
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シスコやサニー、レッドベリーに乾杯
あなたとともに旅したすべての良い人たちに乾杯
埃と共にやってきて風と共に去るような、
そんな人々の心と手に乾杯
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人生は何物にも値しない。
— だが人生に値する何物も存しない。
「みんな平等に、どうせ最後は何も持たずに死んでいくんやから…」っていう上の句があったときに、どういう言葉があとに続くと思うかって、キッパリと2分される気がする。
どうせ最後は何も持たずに死んでいくんやから、「初めから荷物は小さいほうがいい」、ていう部類のもの。
どうせ最後は何も持たずに死んでいくんやから、「生きてるうちにいろんな物に散財したほうが面白い」、ていう部類のもの。
時代の流れ的には前者の方の考えが優勢な傾向が強い感じがする。
断捨離だったりミニマリストだったり。
あと、「若者の〇〇離れ」っていう言葉だったり。
これについては「〇〇を買えるほど若者の収入に余裕が無い事実から目を逸らして、あたかも若者が意図的に〇〇から離れて無欲化してるふうに片付けんな!」ていう抗議の声もよく耳にする。
わかる気もする、でも個人的には実際若者が無欲化してる印象もじゅうぶん強いけどな。
趣味に対してインポな奴っていうのは社会に出てから結構見かけてきた。
自分の趣味についてチンチンを勃てて見せながら、堂々と話したり飲んだりしてくれない奴とは長くはつき合ってられんわ。
…違う、おれはそっちの部類じゃない方の話がしたいんだった。
人生をかけて、一本の煙草を巻くとする。
子どもの頃から見てきたものや聞いたことを、煙草の葉に詰めるとする。
楽しかった思い出は葉に甘味をつけて、苦労した経験は葉の苦味になるとする。
どこかへ行った思い出は外国煙草みたいなエスニックな特徴を加えて、生きてくなかでの体感時間は煙草を巻く時の葉の密度に関わるとする。
長く生きたりゆるやかに生きたりすると長い煙草ができるかもしれないし、短命に体を張って生きてたらホープみたいな煙草になるかもしれない。
死ぬときが来たら、できあがった煙草に火をつけて最後まで、全部灰になるまで味わって吸うとする。
吸い終わればそこに風が吹いて、灰がどこかへ飛び去って、それが埃になって、また別の誰かが生まれる。
そう、人間が風と共に去って、埃と共にまたやってくるっていう形。
(今回特に良い引用文の使い方できてるな。ここで埃と風に繋げるなんて。自画自賛。表紙絵の意味もここまで読むと分かるようになってるでしょ。)
その、人生をかけて巻く煙草とやらをできるだけ美味くしたい。
美味くなくても、少なくとも自分の好きなものを葉っぱに詰めたい。
そういう気持ちが、自分の中では強い気がする。
生きるのに最低限必要な出費やスペースや食料で暮らすのを美徳とする人間は、きれいな煙草は作れるかもしれないが、ユニークな煙草は作れない。
おれは、旧3級品と言われても良いから、自分ていう銘柄らしい味の煙草を巻いてみたい。
直接的に生きることに必要ないと思われる物事であっても、おれはその無駄を愛したい、みたいなことを何回か前にも書いた気がするけど、例え話にするとこういう感じのことなんよな。
美味いもんにはたいてい粋な遊びがあるし、美味いもんを美味いと思うためにはその遊びを受け入れるための余裕が要る。
もっと言えば、最後にその煙草を吸うのは人間を超えたような、神様や閻魔様でも良いわ。
天国へ行くときの献上品として、自分という煙草を1本、神様に渡して吸ってもらうとする。
生きてて苦しいと思うことがあっても、そこで辞めないのはきっと、誰かのためを思ってとかではなく、中途半端に千切れた煙草を神様に渡すのはどうしても出来んからや。
形になった煙草を吸ってもらわんことには、おれがせっせと葉っぱに詰めてきた思い出や音楽や落語や文学に申し訳が立たんもんな。
でも、一概に自殺は良くないとか、安楽死はどうだとか、他人のことまで突っ込んで断言することはおれには到底できない。
そいつにとってはきれいに1本煙草を巻ききる方法がそれなのかもしれないもん。
他殺はどうやらこの理論でも全面的に良くないな。
他人が巻いてきた煙草に手え出すやつは許せんわ。
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人は一生のうちで一度だけ、誰でも詩人になるものである。
だが、やがて「歌のわかれ」(※)をして詩を捨てる。そして、詩を捨て損ったものだけがとりのこされて詩人のままで年老いてゆくのである。
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大学を卒業すると、みなさんのほとんどは非常に多くの時間を奪いそうな、ある種の職業に就くことになるであろう。こうした環境の下では、文学を愛する多くの若者は愚かにも観念して、この方面での楽しみをやめにしてしまう。そうした若い学究たちは、もはや詩や物語や芝居を書いたりする時間がない — ましてや、個人的な勉強をするための時間さえあまりない、と考えてしまうと思う。
ここらへんの引用は、煙草を巻くのをやめなあかんような暮らしはしたくないなぁ、ていう気持ちと関連して引っぱってきた。
仕事だとか世俗の人付き合いとか、生きるのに必要なことを理由に無駄なもん、好きなもんを離れるのは、粋と遊びの惨めな敗北や。
そういうもんを煙草の葉に詰めるのをきっぱり途中止めにして、代わりに世俗の中での生きがいや働きがいを煙草のフレーバーにしていくのも、良いとは思う。
ただ、好きなもんを詰めてたときと同じペースと密度でな。
煙草が中折れしちゃうとマズい。
やらなあかんことを言い訳に我慢するのは、その我慢ができる程度の好き加減やったらええんやけど、きっとそのうちどっかのタイミングで、煙草に詰めることなく放置した葉っぱが溢れて爆発する。
そういう葉っぱって、自分の心の中で燻った火種に引火しやすいからな。
一生かけて、美味い煙草を1本巻くために、それにあたってベストな環境をつくりたい。
最後の最後、それを吸った神様に褒めてもらえたら嬉しいやろうなぁ。
一服して油断した神様をスキ見て蹴っ飛ばして、吸いさしを横取りしておれが最後に根元まで吸ってやろうか。
そんで、風と共に去りぬ、や。それはもう、最高の映画やんけ。
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歌のわかれ
中野重治(しげはる)の自伝的中編小説。1939年(昭和14)4~8月『革新』に連載。翌年新潮社刊。旧制高校の落第生主人公片口安吉は「ふたつの川と三つの丘とにまたがってぼんやりと眠っている体(てい)」の金沢の街で、「一面が営みであるなかで、おれには営みがない」と絶えず感じている。彼を慰めるのは歌の世界であるが、その歌の仲間鶴来(つるぎ)は学校を中退して上京、貯金局に勤める。やがて彼も大学に進学して上京する。関東大震災後のほこりっぽい大都会は彼の違和をいっそう激しくする。ある日大学構内でポスターを見て短歌会に出席するが、そこでの社交的な歌の扱われ方に反発を感じる。彼の詠草は最高点に入るが、その帰途、彼は短歌的なものと決別しようと決意する。[満田郁夫] 『『歌のわかれ』(新潮文庫) ▽満田郁夫著『増訂 中野重治論』(1981・八木書店)』
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)



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