会報のトラ vol.11

更新日:2019年12月17日

「運動会の花火」「除夜の鐘」に苦情多数で禁止拡大の不寛容
… 住民の抗議を受けながら、鐘を復活させたのは真宗大谷派の大澤寺(だいたくじ)(静岡・牧之原市)である。 住職の今井一光氏(61)はこう話す。 「百八十度発想を変え、正午から除夜の鐘を突く予定です。昨年も日が高いうちに鳴らしたところ好評で、近隣から苦情も来なくなりました。昼間の方が明るいし寒くないので、今まで足を運び辛かったお年寄りや子供たちも、気軽に鐘を突けるようになりました。お手伝いに来る婦人部の方も、夕方は家でおせちの準備ができると喜んでいますね」 …
除夜の鐘(じょやのかね)は、日本仏教にて年末年始に行われる年中行事の一つ。12月31日の除夜(大晦日の夜)の深夜0時を挟む時間帯に、寺院の梵鐘を撞(つ)くことである。除夜の鐘は多くの寺で108回撞かれる。
…夜じゃなくてもええやつやったんか?
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どんな文章であれ、ある人間によって書かれたものなのであれば、そこに必ずそいつの考えや感情が注ぎ込まれるもんやと思っている。
どんなに淡白な文でも、客観的そうに見える文でも、単語がいくつか並んでできた文である限り、その単語をその順に並べた意図や、そもそもその文を作ろうと思った意識の起こりは、筆者の脳ミソから湧いたはずや、と。
その考えが一番揺らぐのが、こういうワケのわからんニュース記事なんよな。
こんなに短くて単純な、こんなに下らん出来事の記事程度でも、ニュースの文章というのは、書いた人間の真意がマジで読みづらい。
それはなぜか。
記事を作るための取材の開始から先々での聞き取り、記事の編集、写真の選定、文章量の設定、掲載日の決定に到るまで、ニュースを書くあらゆる段階において、筆者そのもの以外の人間の脳ミソとか、ところどころで発生するイレギュラーが文章作成に介入してくるからや。
「それはほんまにお前が言いたいことやったんか?」っていう問いすら投げかける先が見つからない。
文芸的に見れば小学生の作文より大欠陥やと思うんよな。
新聞読んだら読解力つく、っていうのはどう考えてもウソなんちゃうかな。
人の良い、地頭のあるおじさんがたった1人で作ってるような、そんなニュース記事なら、おれはマトモに読んでも良い。
そんなもん無いから今週も仕方なく、冒頭のくだらん記事からフザけた会報を作る。
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まず、小学校の花火とやらと除夜の鐘が並列して記事タイトルになっとるとこからよう分からんねん。
どっちもいろんな町で古くから行われてきた伝統行事やから、ていう魂胆なんかもしれんけど、前者は学校行事で、後者は宗教行事とちゃうんか。
小学校と宗教が大差無い、ていう思い切ったメッセージなら、見上げたもんやな一理あるやんけ、ってそっち方面で話を続けるけど、さっきも言った通りこの手の記事は筆者の顔が浮かばんからこっちもイマイチ大舵を切って楽しむ気になれんのよな。つまらん。
話を常識的な方向に戻すと、おそらく記事を書いたコイツ(コイツら?)は単に伝統行事として花火と除夜の鐘を軽い気持ちで「禁止拡大の波に襲われる見慣れた光景」みたいな位置付けで並べたんやろうな。
この記事を何気なく読んでるパンピーたちは、どのくらいこの並列に反応を示すんやろうか。
義務教育上の行事と宗教上の行事の違いは心の中で分かったうえで読み進めてるんやろうか。
何とも思わないで読み進めてるんやろうか。
たぶん後者なんかなあ。
こういう話ってどこらへんに常識的な着地点があるんやろうな。
日本人は宗教に対してオサセ過ぎんのよ。
それでいて自分らには特定の信仰が無いとか何とか言うとる。
タチの悪いビッチであることを自覚したほうがええで。
一回それでイタい目見たことあるんやろうが。
それはそれとして、宗教上の行事で聞こえる鐘の音のうるささを認めんことを「不寛容」とのたまうなら、例えばおれが深夜に音楽を爆音で聴くのが認められないのも不寛容とちゃうんか、とも思い始めた。
ここらへんから急進的な話になる。さすが音楽結社の会報やね。
宗教ていう言葉を辞書通りに「人間の力を超える絶対的なものの存在を信じ、それを信仰すること」と捉えるなら、おれの今までの人生において一番「絶対的」やったのはぶっちぎりで音楽や。
音楽を聴いたり弾いたりするために真っ当に働こうと思ってるし、日々を真っ当に暮らしてれば良い音楽が自然におれの頭のなかに浮かぶと信じてる。
音楽が聴けなくなるならヤバイ犯罪はしない。
音楽を聴けなくされるくらいならどんなヤバイこともする。
…冷静に考えてみると、めちゃめちゃ敬虔な信徒みたいやね。
音楽をキリストなりブッダなりアッラーなりに置き換えたら分かりやすい。
ふと思ったが、おれが自分の作った曲や演奏するライブに対して貰える金にあんまり頓着しないのは、直感的に「音楽が好きでやってるだけのことに金をもらうのはなんか違う」っていう違和感を覚えるからなんやけど、その理由の正体こそ今書いたような音楽観に近い気がするな。
何と言うか、神社にお参りに行ってる人にお賽銭を渡すのはてんでお門違いやろ?
そんなもんバチが怖くて受け取れるか。
少なくともおれはそういう意味で、年に一度除夜の鐘をありがたがるクセに普段は仏教心の無いそぶりをしとるような奴らよりかは、よっぽど立派な宗教者や。
そんなおれが路上で勝手にライブしたとすれば世間は不寛容で、一方で托鉢を乞うて路上に立っとる坊主には理解を示すどころか律儀に小銭も渡す。
おれと坊主、何がちゃうねん。
おれはむやみに金なんぞせびったことないのに!
おれは音楽でメシを食っていくのを目標にした「ミュージシャン」では無い。
どっちかというと、音楽を楽しむためにせっせこ働きメシを食ってる、バカ正直な「ピューリタン」や。
おれの予想では、おれの言うようなミュージシャンは今世紀中にいなくなる。
対して音楽的ピューリタンの存在が世間に認められる時代が今世紀中にきっと来る。
音楽のプロの中にマジモンの音楽好きがおれるハッピーな時代は、歴史の中でも教会の聖職者が腐敗しきった時代があるように、永遠には続かん。
そのときに備えて、ガチの音楽好きは不用意にプロの世界に立ち入らずに自分の信仰心を温めとったらええ。
呼ばれときに、日の目に向かってノコノコ出てきたらいい。
歴史は繰り返すと言うし、今世紀の終わり頃にもこの冒頭みたいなくだらん記事はあるんやろうなあ。
そんときには「運動会の花火」「除夜の鐘」のあとに「路上ライブ」でも並んでたらオモロイんやけどな。
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