泥のなかにいる亀の話


「荘周(そうしゅう)夢に胡蝶と為る」
荘子は夢の中で胡蝶となった。その時は自分が荘子であることを忘れていた。夢がさめると、かつて胡蝶であったことを忘れた。そうなると胡蝶がほんとうの荘子なのか、荘子が胡蝶なのか、わからなくなった。
人生がなんであるかの真の意味はわからないというお話しです。
赤の王
チェスの駒。第1章で他の多くの駒とともに登場した後、第4章でナイトキャップをかぶり轟音のいびきをかいて眠っている姿で再登場する。トウィードルダムとトウィードルディはアリスに、彼はいまアリスのことを夢に見ているところであり、つまりアリスは赤の王の夢に過ぎないのであって、赤の王が夢を見ることをやめればアリスはたちまち消えてしまうのだと説明する。このテーマは物語の末尾で、現実に引き戻されたアリスによって反復されることになる。
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今まで意識したこともなかったことに、ある日ふと気づいて腑に落ちることがある。
おれのものの考え方にいちばん大きな影響を与えたのは不思議の国のアリスの世界観やと思ってて、それはそれで今までも日記に書いてきたことがあった。
このアリスを読むときに感じる面白さと似た感覚を受ける作品っていうのはルイス・キャロルのもの以外でもいくつかあって、例えばそれはジョンレノンの書く歌詞やったり、古典落語であったり、小泉進次郎の発言であったりする。
要するに「ナンセンス」っていう不思議な仕掛けが潜んでるような物ごとが大好きなわけやね。
最近その「おれの好きな感じ」の部類に、今までは何故かそこに分類してなかったものが実はピッタリ入るんじゃないか、と気づいた。
それが、荘子っていうやつがとんでもなく大昔に残したいろんなものの例え話なんよ。
「ナンセンス文学」なんていう名前ができるより2000年ぐらい前の人間の話やから、あんまり今まで荘子の言葉をそういう風には見てこなかった。
おれが大学の卒論で勉強したのも、アリスの影響を受けたって言われるような、後の世代の物ごとやったからね。
でも、最近も読んだ本のなかに荘子の名前が出てきたりして、ふと考えたらこの先人の言うとることは今までおれの養ってきたものの見方に通ずるところがある気がした。
昔の中国の哲人荘子の有名な言葉に「無用の用」というのがある。これは一見効果のなさそうなところにこそ本当の効果があるという意味である。たとえば食器に必要なものは本体の部分ではなく、なかの空間の、なにもない部分であると言っている。
これぞ「わかりみが深い」って感じやね。
気づいた今思えばこれ以上ないほどすごくアリス的な考え方やね。
これおれが2000年前に書いたんじゃなかったっけ、てくらい。
この人の残した寓話はかれこれ今まで民衆どもの生きる知恵にも使われてきたんで、アリスとかよりかは直接的に人の生き方にメッセージを投げかけてくんのよな。
それは娯楽第一主義のおれからしたら普通はおもんないことなんやけど、荘子の場合はどっかしらの考え方の根っこにシンパシーめいたものがあるんか、不思議とそういうありがたい系の話をも自分のエンタメ観にも当てはめれちゃう。
輪扁は、斉の桓公が読書をしているところに居合わせ、問答をする。
車輪づくりに長じていた輪扁は、実践と感性の重要性をわきまえ、言葉だけでは伝授できない技術があることを知っていた。
このことを踏まえて、桓公に対して、「聖人之言」を読んでも昔の人の魂のかす(古人糟魄)しか得られない、自分も車輪を削る加減のコツは言葉では伝えられない、と述べたとされる。
そこから、言葉や文字で伝えることの難しさ、あるいは、書き残された知識は得られたとしても、そこに尽くされていない肝心な神髄は理解することができないことを意味する比喩として言及される話となった。
『荘子』中のこの話は、著者が述べたいことを作中の人物の口から語らせて、読み手を納得させようとするものであり、故事を借りて道理を説くというものではない。
つまりこの輪扁が語った話は、作者である荘子の言いたいことである。
たとえばこれとかな。
この日記を始めたころにも書いたけど、おれは音楽を後世に残すのは「録音媒体に記録する」か「それを生で見た人間がさらに生で別の人間に見せる」かのどっちかやと思ってて、後者みたいなライブのほうがどんな故人の音源よりそいつを感じれる場合だってあるっていうのが持論。
目に見える、耳に聴こえる形にハマった記録では限界があるっていう点ではおれの音楽観にも通ずる。
そんな「昔の人の魂のかす」をレコードプレーヤーで聴くだけでもおれは天にも昇る気持ちではあるんやけどな、おめでたいことに。
荘子濮水に釣る。
楚王大夫二人をして往きて先んぜしむ。
曰はく、「願はくは境内を以て累はさん。」と。
荘子竿を持し顧みずして曰はく、
「吾聞く、楚に神亀有り、死して已に三千歳なり。
王巾笥而して之を廟堂の上に蔵すと。
此の亀は、寧ろ其れ死して骨を留めて貴ばるるを為さんか、
寧ろ其れ生きて尾を塗中に曳かんか。」と。
二大夫曰はく、「寧ろ生きて尾を塗中に曳かん。」と。
荘子曰はく、「往け。吾将に尾を塗中に曳かんとす。」と。
これはもしかしたらおれの娯楽観に限らず、人生についても地で行っとることかもしれん。
誰かにチヤホヤされたい気もするけど、祭り上げられたくはない。
けど見つかりたい気もするからたまに顔を出してはまた自分の住み処に隠れる。
おれがよくツチノコの気持ちに例えてる状況に少し似とる気がする。
とにかく、おれの脳みその中に、今まで特別には振り分けてなかった荘子っていう棚がまた新しくできた。
たまにこういうことがあるから、おれはどんなんになるんかまだわからない。



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